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優しさってなんだろう、の自分なりの答え


なんでそんなに優しいの?

なんだかよくわかりませんが、しばしば仲の良い人に聞かれます。(褒めていただいてる。ありがとう。)

その答えとして自分の奥底にある思考を掘り起こして言語化して相手に説明してみました。

なぜか自分があまり良い気分にならなかったので、もっと的確な言葉で表現したいな、できるようになりたいな、と思ってこのnoteを書いています。

結論

うだうだ書く前に、結論から。

利他的な人はとても利己的なんだというところに落ち着きました。

自分の場合、ここには二つの要素が大きく絡んでると思います。

❶他人への期待値が異様に低い

❷意思決定の前提条件が「自分がまず満足できるか?」

多分気づいていないだけでもっとあるのでしょうが、この二つが自分の中で大きいような気がしています。


一通り自分が思う「優しさ」を説明した後、なんだかすごく悲しい気持ちになります。このnoteを書き終わった時もそうなっているのでしょう。。。

❶他人への期待値が異様に低い

https://images.unsplash.com/photo-1542278668-c391a665fe2e?ixlib=rb-4.0.3&ixid=MnwxMjA3fDB8MHxwaG90by1wYWdlfHx8fGVufDB8fHx8&auto=format&fit=crop&w=1480&q=80

これはなぜなのかよく考えるのですが、自分でもわかっていません。
おそらく、バックグラウンドに関係があるのでしょうが、親に吹き込まれたわけでもなく、そんな思想を外から植え付けられた記憶はありません。

誰に対しても、等しく期待値が低いのです。

これは、決して周りはみんなできないやつだ、と見下しているわけではありません。むしろ周りの人はみんなすごいと思ってさえいます。

だから、他者が成功したら「すごい」がまず口から出る。

他者が失敗したら、「ドンマイ、次がんばろ」と言える。

他者のプラスの行動は簡単に期待値ハードルを超え、他者の失敗に対して怒ったりすることは全くありません。

結果、周りから外面だけ見られた時に、優しいというような評価に繋がるのではないかと思います。自分にとっては大いにプラスですよね。

❷意思決定の前提条件が「自分がまず満足できるか?」

公式サイトのhtmlを見るとリクルートする食べログさんがいます


具体例を挙げます。

よく友達とご飯に行くことがあるのですが、決まって事前に自分から店の候補を3つ提示して相手に選んでもらうという方法をとっています。

善意、ではあるのですが、相手のためというよりは自分のためにという側面が強いです。

第一に、僕は食べることが好きです。食べることは生きることです。
食べ物で体ができている以上、食べるものを選ぶことを放棄したら、生きることを放棄することにも繋がるとさえ思っています。(ありがたいことに日本は何不自由なく食事ができる環境ですが)


1日3食、1年で約1000食。100歳まで生きるとして現在20歳なのであと80年の命。最後の5年は自分の食べたいものが食べられないとすると、自分の力で選べる食事はあと約75000食。

多いと思えばそこまでですが、渋谷の飲食店全部回り切れるかくらいじゃないでしょうか?(わかりませんが笑)

そんな貴重な食事の機会。食べたいものは自分で選ぶべき。

だから相手に3つ、どこに転んでも自分が満足できる店を提示します。


この前提条件をクリアしたら、相手への価値提供をいかにできるかを考えます。自分が食べたいものを相手に押し付けるのは違います。意思決定にかかる時間をカットしてあげられる上に、相手に最終的な決定権を渡したら「自分で選んだ」という実感のもと食事に行けて最高じゃないですか?


こんな感じでまず第一条件として「自分が満足できる形」を作ります。それが成立している上でいかに相手に価値提供できるか考えるのです。


これも結局は、情けは人のためならず。

無意識だとしても自分に帰ってくることを期待しているのかもしれないです。


面白い例をもう一つ。

ボノボという類人猿の仲間が群れの他の個体に食べ物を分け与えることがあるのだが、やはりただ善意で受け渡しをしているわけではなさそうなのです。

食べ物自体が目的というよりも,食べ物を介した社会関係構築が重要な意味を持っているのかもしれない。

上記リンクから抜粋

ヒトの祖先のボノボの例を見ると、「優しさ」のインセンティブは遺伝子レベルでヒトにも伝わってるのかもしれないですね。


利他的=利己的マインドの問題点

ここまで説明すると、「確かに…」と相手は納得してくれることは多いのですが、このマインドで生きてると弊害が多いのです。。。

例えば、他人に優しくされた時。
「まあ結局は自分のためであって本質的に私のためではないんだな」みたいなことを思ってせっかくの優しさを額面通りに受け取れなかったり、

逆に、自分が相手に優しい行動をした時。
「ああやっていいことしたけど、これって本能とかもっと深い潜在的な意識みたいなとこでは自分の利益だけを見た結果なのかな」と自分が相手にしてあげたことを自分自身で肯定しにくくなってしまったり。

なんだか自分が

(こんなことばっか考えてるとでひん曲がった思考によって卑屈な人間になってしまうので、ほどほどにしておくほうがおすすめです。。。)

最後に

究極の利他行動は他人のために死ぬことだと考えています。
なぜならば、利己的でいられるのは自分が生きているという大前提があるからです。他人に何かを分け与えるのも、後で何か帰ってくると期待しているからです。死んでしまっては後から恩恵を受けられません。それでは相手に「恩を売る」意味がなくなってしまいます。

そう言った意味で、事象は多くなくても自分の命を投げ打って誰かを助ける人もいるのが事実です。そんな行動ができる人間はやっぱり利他的な生物なのかもしれないですね。


うーん奥が深い。
でもやっぱり腹落ちはしてるけど「利他的=利己的」をつなげるとなんだかちょっと悲しくなってきます。

皆さんにとって優しさってなんだと思いますか???


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