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人生の岐路は、湯けむりの先に(2)

エッセイ集「湯あがりみたいに、ホッとして」の発売を記念して、本の中のお話を数点公開いたします。真面目なお話からちょっと笑えるお話まで、銭湯やサウナ、高円寺やフィンランドを舞台にいろんなお話を書きましたが、どれも読み終わった後にホッとする気持ちになってほしいと思いを込めて書きました。お仕事の休憩時間や、ご飯を食べ終わった後、そして湯あがりのひとときのようなホッとする時間に読んでいただけますと幸いです。

【前編はこちらより】

 すっかり銭湯に魅せられた私は、O先輩と共にあらゆる銭湯を巡りまくった。
 青山のド真ん中にあるオシャレな銭湯「南青山 清水湯」、黒湯という東京ならではの温泉と花見風呂を楽しめる池上の銭湯「桜館」、湯あがりに二階の宴会場でお酒とカラオケを楽しめる銭湯「蒲田温泉」……。
「湯に浸かる」行為は同じなのに、どの銭湯も個性豊かすぎる。私が特に好きなのは、完全に店主の趣味と思われるキューピッドの石像や年季の入ったぬいぐるみなどが飾られている銭湯だ。銭湯にピッタリとは言えない置物たちに強い思い入れが感じられて、店主の部屋を覗き見しているようで何かワクワクしてしまうのだ。
 やがて、銭湯に入るだけでは飽き足らず、ランニング→銭湯→酒のコースを開拓したり、番台さんに近所の美味しいご飯屋さんを教えてもらったり、オリジナル銭湯Tシャツを作ったりと、銭湯沼にどぶどぶ浸かっていった。
 銭湯巡りに熱中する一方で、私は休職中のMちゃんとの交換絵日記も日々の楽しみにしていた。
 私もMちゃんも大学の頃からよく絵を描いていて、「休職中だし何か描きたいよね」と盛り上がり、一日交替でSNSに一枚の絵を投稿することにしたのだ。
 最初は、美味しいスコーンや文房具の話なんかを絵日記風に描いていたが、銭湯巡りが加熱してくるにつれて銭湯ネタがどんどん増えていった。
 そんなある日、ふと、銭湯の立体的な絵を描いてみた。当時はまだ銭湯の良さに気づいていなかったMちゃんに、どうにかして銭湯の魅力を届けたいと思った時、大学の授業で習った「アイソメトリック」という建築図法が頭に浮かんだ。それは建物を斜め上から俯瞰図的に見下ろしたような立体的な描き方で、この図法ならひと目で銭湯の魅力が伝わると思ったのだ。

寿湯0


 目の前にあったスケッチブックを破いてマジックで一発描き。そのままスマホで撮影して、SNSに投稿した。これでMちゃんが銭湯の建築の魅力にも気づいてくれたらいいなあと妄想していたら、瞬く間にいいねが十二もついていてギョッとした。普段なら二〜五ぐらいがいいところなのにどうして……?
 詳しく見てみると、どうやらフォロー外の銭湯ファンがいいねを押してくれたらしかった。もう、飛び上がるほど嬉しかった。成績が伸びず苦しんだ大学時代、劣等感で仕事に打ち込みすぎて体調を崩した今。ずっとずっと認められたかったのに、なぜか上手くいかなかった。そんな私の絵が、知らない人から褒められるなんて。その日は興奮と喜びでうまく寝つけなかった。
「銭湯を図解しているんだね」イラストを見たMちゃんの一言でイラストに「銭湯図解」と名付け、そこから何枚も何枚も銭湯図解を描いてSNSに投稿した。
 新しい銭湯に足を運び、家に帰ったらウェブで資料を集めて、無我夢中で絵を描く日々。八枚ほど描いた頃、銭湯メディア「東京銭湯-TOKYO SENTO-」からイラストの掲載依頼のメールをもらった時は驚きすぎて気を失うかと思った。もちろん二つ返事で承諾し、後日アップされた銭湯図解の紹介ページは、宝物を眺めるように何度も何度もスクロールした。
 嬉しいことは続くもので、「東京銭湯」にイラストが掲載された数日後、杉並区の銭湯「小杉湯」からTwitterにDMをもらった。内容は「小杉湯の新しいパンフレット用に銭湯図解を描いて欲しい」というもの。
 小杉湯は交互浴の聖地とも呼ばれ、交互浴好きとして「いつか絶対行きたい」と思っていたので、DMを見た瞬間速攻O先輩に電話してその興奮を一方的にぶちまけた。
 喜び勇んですぐさま返信し、翌々日には小杉湯に足を運んでいた。
 高円寺駅から徒歩五分ほど、車が一台通るのにも精一杯な狭い路地沿いに小杉湯はあった。
 赤みが強い木の格子、重厚感漂う唐破風の瓦屋根、その下には木彫りの鯉が優雅に泳いでいる。
 趣ある外観に気圧されていると、シャッターがガラガラと開いて、赤ちゃんを抱いた三十代後半の男性が顔を覗かせた。DMで連絡をしてくれた小杉湯三代目の平松佑介さんだ。
 挨拶をして小杉湯の中を案内されると、白い漆喰の壁、格天井と呼ばれる木を組んで格子状に仕上げた天井、ツルリとした木目の床にラタンの丸い脱衣籠が目に入った。昔ながらの銭湯らしい脱衣所だ。
 手入れが行き届いた綺麗なガラス扉を開くと、白い浴室が広がっている。手前にカランがずらっと並び、その先に四つの浴槽、奥の壁には大きな富士山のペンキ絵が鎮座している。高い天井付近に取り付けられた窓から差し込む光が浴槽の湯船を照らし出し、白い浴室をさらに明るくする。ゴボゴボという湯の音に耳を傾けていると、湯に浸かっていないのに胸の奥まで温かくなって、優しい気持ちになる。
「いい銭湯だなあ」心のうちで思っていたことは自然と声に出ていたようで、平松さんは顔を綻ばせた。
 平松さんは元々ハウスメーカーの営業マンで、その後ベンチャー企業を立ち上げた後、数週間前から家業である小杉湯の仕事を手伝い始めたらしい。
「手描きのほっこり感が小杉湯にあったらいいなと思っていたから、銭湯図解を見た瞬間にビビっときて!」平松さんの言葉に、なんだか胸の奥がむず痒くなり、ぎこちない笑顔を浮かべた。
 パンフレットに関する打ち合わせ自体はすぐに終わったが、その後の雑談が楽しくてすっかり長居してしまった。小杉湯の歴史や今抱えている課題、私が銭湯図解を描き始めるに至った経緯、さらに「温泉でもスーパー銭湯でもなく銭湯の魅力ってなんだろう?」というテーマまで。
 こんなに深く小杉湯のことを考えているなんて、情熱を持っている人だなあと思ったものだ。
 話が終わる頃には、初対面とは思えないほどすっかり打ち解けていて、「銭湯図解を描いて終わりではなく、もっと小杉湯に関わりたい」とぼんやり思った。
 それから小杉湯に何度も足を運ぶようになった。パンフレットの進捗状況を共有するだけではなく、値札や待合室にある漫画のPOP制作などのお手伝いも始めた。平松さんも他にも手伝って欲しいことがたくさんあると思っていたそうで、それならぜひに! と率先して絵を描くようになった。
 大好きな銭湯に行って、大好きな絵を描いて、銭湯にまつわる深い話をして、お風呂に浸かって帰る。毎日が楽しくて仕方がなかった。
 そんな日々を送るうちにだんだんと体調も整い始め、まだ万全とは言えないけれど、銭湯に行けばよくなるから大丈夫! と設計事務所に復職することになった。
 まだ病み上がりなので勤務時間を制限し、勤務内容も以前よりずっと軽くしてもらった。「これならすぐ終わっちゃうな」と余裕ぶっこいていたが、数時間もすると疲れが激しく、集中力もまったく持たなくて退勤する頃にはヘトヘトになってしまった。
 以前の私なら、あっという間に終わらせられたのに。全然ダメだあ。
 帰り道、フラつきながらも救いを求めるように銭湯を訪れた。あつ湯と水風呂を繰り返し、ようやくクリアになってきた頭で考えた。
 以前通りに働くのは、もう難しい。それどころか、設計の仕事自体できないかもしれない……。悲しかった。今まで身を粉にして建築の道を走ってきたのに、それが水の泡なんて。悲しくて悔しくて涙が溢れたけれど、それ以上に体の限界を感じてしまったのだ。

 週末、再び小杉湯を訪れた。打ち合わせ中に、平松さんになんとはなしに事務所に復帰して感じたことを話した。別の建築の仕事に就いて体調を治すのが一番いいかもしれない……。
 平松さんは真剣に私の言葉に耳を傾け何度も頷いた。そして私が話し終えた頃に、強い眼差しでこう口にした。
「それなら小杉湯で働かない?」
 まさか自分が銭湯で働くなんて、一度だって考えもしなかった。平松さんは驚く私をよそに、更に身を乗り出して言葉を続ける。
「小杉湯なら、体を治しながら働けると思うよ。それに、小杉湯で塩谷さんは輝くと思う!」
 輝く? 何言ってんだ?
 訳が分からないけど、平松さんの目はキラキラしていた。怖いよ!

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 平松さんの誘いにすぐに応えることはできなかった。
 銭湯で働くイメージがなかったことと、何より建築以外の世界に飛び込むことが怖かった。大学時代からずっと、脇目も振らず建築の世界を突っ走ってきたのだ。そんな自分が銭湯に転職するなんて、これまで頑張ってきた自分を無視するような気がするし、それに建築以外の世界を知らなすぎて、飛び込むのが怖い。
 でも、その恐怖と同じくらい、ワクワクもしていた。
 小杉湯に転職したら絵を描くことが仕事になる、それに何より大好きな銭湯で働けるのだ。建築が好きな気持ちはあるが、でも同じぐらい銭湯が好きになっていた。
 悩んだ。もうこれ以上ないってくらい、毎日悩みに悩んだ。
 それでも答えが出なくて、もう、人に決めてもらおう! と、友人十名に悩みを聞いてもらうことにした。そこで、一人でも転職に反対したらその時は潔く諦めようと思ったが、答えは全員「転職した方がいい」。
「塩谷は学生の時から絵が好きだったじゃん。今、絵を描く人生が目の前に広がっているなら、そっちを選んだ方がいいよ。建築なんていつでも戻れるんだから」
 友人の一言が、心を揺さぶった。そうだ、私は絵を描くことが好きだったんだ。建築学科の課題では、必要がなくても必ず何かしら絵を描いていた。
 何より、私が建築の道を選んだのは、母と描いた建築パースがきっかけだ。建物を描くのが好きで建築に興味を持つようになったのだから、むしろ絵を描くのは原点に返るようなものなんじゃないか。
 友人たちの言葉に、私が本当に大切にしていたものに気づかされて、背中を押されるように小杉湯への転職を決意した。
 あの時の決断が正しかったかどうかは分からないけれど、小杉湯や銭湯にまつわる出来事や人々に愛おしさを感じている。それこそ、文章に書いてしまいたくなるほどに。
 もしかしたら、あのまま建築業界にいたら立派な建築家になっていたかもしれない。でも、今の日々が誇らしく感じられているので、この決断でよかったなあと思っている。
 平松さんが言っていた「輝くと思う」。あの時は意味が分からなかったけれど、もしかしたら言葉通りになっているかもしれないなあ。


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『湯あがりみたいに、ホッとして』
2022年11月17日 双葉社より発刊
ご予約はこちらより

設計事務所から転職し、「番頭兼イラストレーター」として活躍した銭湯を退職、画家として独立した著者。100℃のサウナと0℃の水風呂を往復するように波瀾万丈な人生ではあるけれど、銭湯やサウナ、それを愛する人々に助けられたり、笑わされたりして、少しずつ自分らしくいられる場所を作っていく。銭湯の番頭業務の裏側や『銭湯図解』制作秘話、フィンランドサウナ旅など、濃厚エピソード満載! 読むとホッとして、ちょっとだけ前に進む気持ちになれる――。『銭湯図解』で話題沸騰の著者による、笑いあり涙ありのエッセイ集。

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(10月28日締め切り)

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