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人間 - 隣の芝生は
多分人はとにかく自分に今ないものを欲しがる傾向にある。
例えば、他人との付き合いがそれほど億劫でもなく周りに大体人が集まってるのが常の人間がいるとする。
でもある日突然、その人間は全く関わりのない人間たちから誹謗中傷を受ける。
この時被害者がとる行動は様々だと思う。誰かに相談したり、自分自身の中だけで落とし込んだり、SNSに投稿したり、忘れようとしたり。ただ一つ共通しているのは、この誹謗中傷がその名の通り、この人間にとって最悪の出来事であり、ひどく傷つけられたものであったこと。
きっと世の中の多くの人間は本来こうであると思う。酷いことをされた、酷いことを言われた、だから悲しい、辛い、涙が出る。この酷いこと、っていうのは世間一般的なもので、ブスとか消えろとか、そういった類のもの。現に、多くのひとは、誹謗中傷という言葉だけを聞くと真っ先にそんな感じの言葉が追って思い浮かんでくる気がする。
でもやっぱりこう考えると世間は世間で、世間っていうのは多数派を意味する言葉だと痛感する。もう一面どころか他にもあるかも知れない、私たちは常にその考え方を忘れてる。
例えば、他人との付き合いが心底億劫で学校でも職場でもどこででも常に1人の人間がいるとする。
他人と付き合いたくない訳でもない、ただ自分から進むことができないまま、結局ずるずると独りを手に入れてしまった人間。普段は誰と言葉を交わすわけでもない、必要最低限しか発言はしない。しかし聞かれれば答えるし、笑顔だって作れる。だから誰からも批判されないし、嫌われない。そして関心を持たれることもない。
でもある日突然、自分が知らぬ間にSNSで誹謗中傷的な言葉を受けていたことを知った。"普通"ならば被害者であるはずのこの人間は、被害者らしからぬ感情を持った。喜びと快感。それまで誰からも注目を受けず、自分がそこにいようがいまいが関係ない、存在に意味がない、自分がいなくなっても誰も気付かない、そう思っていた。
しかし、自分は知らぬ間に著名人と化していた。えもいえぬ感覚だった。それは決して、悲しみや絶望といった負の感覚ではなく明確な幸。本来の笑顔というものの正体を知った気がした。
前者であるべき、後者であるべき、ということではない。どちらもただ人間として生きているだけの話。ただ、生き方に違いがあって、持っているものに違いがあっただけ。人間は生きているうちに様々なものを持つことになる。きっとその数に限界はない。
しかし全てを持つことが必ずしも正義であり、裕福であるとは限らない。持つことで知りうることがあれば、持たないことで知りうることもある。それをきっと多くの人は心の奥ではわかっている。
でも人は忘れる生き物で、何も思い通りにはいかない。
だから今ある自分を否定して、今持っているものを否定する。
時には、絶対に手に入らないものを追い求めようとする自分自身を欲しがったりする。そうして慈悲を求めたり、他人からまた、何かを得ようとする。
死ぬまで終わらない無限ループに抗える者は、全てを諦めることができる者だろうか、それとも、そんな者は存在しないんだろうか、と思う。
2021/04/21
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