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作品を通して世界、そして自身を観る

美術館では、展示作品を一つ一つ鑑賞します。
映画館に入ると、どんなストーリーかと期待しスクリーンを見つめます。
本を読むと、書かれている言葉から、著者の意図を知ろうと努めます。

作品とは何か

人が創り出す作品は実に多種多様です。
例えば古典芸術では、線画や油絵・水彩画、版画に彫刻と多岐にわたります。膨大な作品に目を向けると、息を呑む程細密なものもあれば、どうみても下手ではないか?と思える作品もあり、それでも名作だと称されていると、美醜や良否の基準は一体どこにあるのか、自分は何も分かっていないのではないかと、だんだん不安になってきます。

未知の概念はあなたに挑戦する

コンテンポラリ・アートともなれば、もはや異次元です。
描いたのか破ったのか、はたして作品なのかもよく分らないドローイングや、彫刻でも置物でもなく、むしろ廃品にしか見えない物体、挙句には意味不明の音や映像までもが「作品」としと展示されいます。
そして、それら作品の多くは「無題」と記され、理解の糸口すらありません。

映画もしかり。
分かりやすいストーリーの娯楽作品がある一方、駄作と呼ばれる退屈な作品や、難解で理解に苦しむ作品も少なくありません。例えば、1993年公開のデレク・ジャーマン監督作『BLUE』。74分間、タイトルからエンドロールまで、ただひたすら青一色の画面が続きます。
本も同様に、時代を超えた傑作や痛快な小説もあれば、あたかも言葉だけで構築された迷宮の中を出口を求めて彷徨う、読むうちにそんな気持ちになる作品も多々あります。

こうした色々な作品を鑑賞していると、最後にはすっかり疲れ果ててしまい、正直、一体何を鑑賞しているのか、いや、そもそも鑑賞とは何なのか、理解とは何か、自分自身でもよく分からなくなるのです。

鈴木大拙の世界

金沢には、兼六園の南、歴史博物館の裏手に「鈴木大拙館」があります。
金沢出身の仏教哲学者である鈴木大拙氏の足跡と考えを紹介する記念館です。
装飾は極力抑えられ、展示空間よりも思索空間が広くとられた構成となっています。
この空間そのものが哲学。そんな雰囲気が漂う、実に趣のある空間です。
私が好きな空間の一つで、金沢を訪れた際はできるだけ足を運ぶようにしています。

展示空間には数々の書物が紹介され、大拙氏の思想に触れることができますが、その世界は実に深遠です。僅かな鑑賞時間だけでは、そのほんの微かな一端に触れられるに過ぎません。ですので、この博物館での鑑賞は、館内の最後にある静かな「水鏡の庭」を前に、黙して思いを巡らすことが中心になります。
(写真の中央に見える池が「水鏡の庭」)

ですが、思索空間の畳に一人佇んでいると、風景だけを少し眺め、数分もせずに立ち去る方がほとんどです。
展示ってこれだけ? 意味が分からないね。なんだか難しいなぁ…
そんな声が、聞くともなしに聞こえてきます。
分かりやすい解が無い世界に対峙すると、人は戸惑うのです。

意識の深淵に潜る

先日、横浜で開催された国際アートフェア「東京現代」に足を運び、数多くのコンテンポラリ・アート作品を観ていて、ふと、この鈴木大拙館を思い出し、あ、そうか…と気づいたことがあります。
鑑賞とは単に作品を観るだけでなく、その感覚に触発され自意識の深淵に潜る行為ではないかと。

その作品に触れた自分の内側、自らの内面の奥底へ、どこまでも、どこまでも深く。
内も外も、観ようとすれば、観たいものだけしか観えません。
知りたいと欲張れば、期待したものだけを理解します。
理解とは、概ね自身の願望に基づくものです。
自分の既成の枠組みで理解しようとする前に、世界を素のままに感じ、自身の心身の反応を探り、思考の道筋を辿り再構築してゆくべきではないでしょうか。

多くの創造物に触れ、様々な未知のものを体験し、観えないものを聴き、聴こえないものを観ようとする意識を深め、拡げてゆくことを楽しむ。
そう考えると、アートも、映画も、本も、何もかも、あらゆる作品がものすごく面白く思えてくるのです。
(了)

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