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『すばらしき世界』というタイトルの映画を観て現代の残酷さを実感する皮肉

「多様性を認める社会」なんてのは建前だ。この社会の前提は「不寛容」なのだ。

本作は、「寛容されない側」で生きてきた1人の男が、人の助けを借り足掻きながら、なんとか「寛容される側」にしがみつく物語である。

人生の大半を刑務所で過ごした男・三上が刑期満了で出所した。4歳から児童養護施設で育ち、裏社会で生き、人を殺した。少年院も合わせ、人生の半分以上を刑務所で過ごしていた。

この社会で生き難いほどの素直さゆえに突如沸点に達し暴発する狂気。普段は温和で優しいから余計、この相対する様子がコロコロ変わってゆくさまを表現する役所広司の威力を感じさせる。本作で会得したと思われる九州弁も達者だ。

三上がこの「不寛容な」社会への復帰を目指すにあたり、何人もの人が彼を支え手を差し伸べている。ずっと社会からあぶれていた三上が、人とのつながりを持って社会で生きていこうとするのを見るとこの世界も捨てたもんじゃないと思わずにはいられない。劇場にいた誰もが笑み綻んでいただろう。しかし、あの衝撃的なラストを観せられると、果たして彼は救われきったのだろうかと疑問を持たずにはいられない。

本作を鑑賞中、あの2作品がずっと頭に思い浮かばれた。一つは『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズ、もう一つは『パラサイト』だ。本作と対照関係にあるBTTFと、類似関係にあるパラサイトというイメージなのだが、本当にこの40年あまりで世界は生きづらくなってしまったのだなと現実を突きつけられたような思いになってしまった。BTTFに代表される80年代ごろの映画は、いわば「未来は今よりもっと素晴らしい」「この世界は創造の余地がある」といった、1(「普通」の現状)→100(もっとすごい「何か」≒未来や宇宙とか)が描かれておりいずれも希望に満ち溢れているのだ。

ところが、『パラサイト』や本作『すばらしき世界』はどうか。描かれているのは、貧困や懲役により社会から弾かれてしまった登場人物たちが「普通」を手に入れるために必死にもがき生きるさま。0(「普通」の生活すら手に入れられていない)→1(「普通」の現状)までの過程が描かれている。(しかもいずれも1に到達しきっていないところがミソ)

「映画は社会を写す鏡である」ことと「資本主義の限界が富の格差の再拡大を招いている」昨今に関連がないとは思えない。嗚呼社会。

これは本当に「すばらしき」世界なのか。そこに少しゾッとしたなにかを感じてしまった。この世界は生きづらく、あたたかい。

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