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偽の自己・真の自己、人・仏の考察メモ

こんにちは、領です。

「悟りの境地で何を悟るのか?」という問いをよく見かけます。
・縁起縁滅の法を悟る。
・諸行無常を悟る。
・諸法無我を悟る。
・無自性空を悟る。
いろいろ○○を悟る。と、考えつきます。

日常でも経験から得た教訓に「○○と悟る」と使います。
・初志貫徹という言葉に縛られなくても良いと悟る。
・夫と喧嘩しない距離感を悟る。
・子供を王様にして育てると大変なことになると悟る。
・日々積み重ねる訓練は計り知れない力があると悟る。

最初に書いた仏教の「○○と悟る」、日常の「○○と悟る」に対して思うこと。
「悟り」「悟る」という言葉を、気軽に使うと実際に仏教が(ゴータマ・ブッダが)何に対して「悟り」としたのか見えづらくなると思います。
日常の「悟る」も究極の「悟る」も地続きで、同じ構造ですが、同じ構造ゆえに焦点がぼやけます。究極の「悟る」に注目します。

仏教の「悟り」は何を指し示した言葉なのでしょうか?

「悟りの境地で何を悟るのか?」
それは、「自心仏」です。

「如実知自心」とは「自心仏と悟る」ことです。
「如実知自心」の刹那、自心が仏に他ならないと領解します。
これが、「悟り」です。

さらに知ることは、「自心を知るは すなわち仏心を知るなり 仏心を知るは すなわち衆生の心を知るなり 三心平等なりと知るを すなわち大覚と名づく」ということです。

個人の私に具わる「自心仏」とゴータマ・ブッダに具わる「自心仏」は、唯一として存在し「同一人物」という構造を持ちます。
【個人の私】の五蘊と【ゴータマ・ブッダ】の五蘊は、ともに唯一の「自心仏」が「観る」構造です。
私の「自心仏」、ゴータマ・ブッダの「自心仏」と分けられ数えられる二心の構造ではなく、一心の構造です。

そこから「一切衆生悉有仏性」を知ります。
三世の全ての人が「自心仏(仏性)」を備えていて、「自心仏」は唯一として存在するので「全ての人が同一人物」という構造を持ちます。

「三心平等」(全ての人が同一人物という構造)を科学の土俵で、探求されるといいな(^.^)

般若心経は、「照見五蘊皆空」という言葉はありますが、仏性に対する説明や言葉がないことが不満です。「照見五蘊皆空」の境地における、無我(実体がない)の説明がメインです。


ところで、「悟りの境地」で知る「自心仏」とは、聞き慣れた言葉だと「真の自己」のことです。

「自心仏」「真の自己」と名づけることに私は違和感があります。違和感というより焦燥感でしょうか。(今回の記事冒頭「自心仏」を多用してますが・・・)
「何か違うのに上手く言葉にできない(焦)」という感じです。
「無名無形の純粋な気づき」と名づけることも違う。
「気づき」という言葉が『人』という形が使用する「気づく」という雰囲気をもっているせいでしょうか。
「仏」という言葉も大日如来とか阿弥陀如来とか仏像を想起します。そうじゃない。
基本は、文字を立てることが不可能なものです。

「仏」=「有と認める作用」「有を確立する作用」ならありかもしれませんが、作用という言葉も違う・・・作用させたくて存在するわけではなくて、この存在形式しか許されないということです。作用ではなく、そうなっているという関係性です。

「自心仏」「真の自己」「気づき」他には「観自在」「仏眼」「如来」「神」などなど、名前がついていると使いやすいです。違和感を持っていても使います。(今回の記事冒頭「自心仏」を多用しています^.^;)
私は「観」と呼ぶことが好きです。
でも「観」には「人が観る」という雰囲気が残るので、「kan」が適切かもしれません。

「kan」(有と認める作用)にたいして、「一心」「自心仏(自分の心が本来仏)」「第一我」「真の自己」「一者」「法身」「観照者」「宇宙の至高なる魂」と名づけることは、主従関係が逆だという感触がします。

「自心が本来仏に他ならない、ただその心を如実に知ることが成仏、悟りです。」
本来の心=仏という表現は人間中心です。
「仏」という文字もにんべんが使われていて、違うと感じますが、「仏」という表現はよく知られていて便利なので使います。

「kan」を『人』に似せて解釈することは違います。
にんべんの字ですが、「仏」を人型に連想してしまうしてしまうと違います・・・。
「仏」は、無名無形です。概念・形の滅です。悟って須弥山でお茶して過ごしたりしません。

『人』は、常に「kan」によって五蘊が「有」と認められ存在を現わします。『人』の「自己」「意識」「心」「認識」は「kan」がなければ「無」です。

『人』の中に、私たちが想像する「意識が在る」は在りません。「kan」が在ってこそ「意識」という構造は、私たちが想像する「意識が在る」を実現できます。
それが「我もなく主もなき仮我を私と呼んでいるにすぎない。」ということです。
仮我に、私たちが思うような「主(主観)」は存在しないということです。
『人』と人工知能の違いにおいて、意識は二義的なもので、「意識が在るとみられる動作」に「kan」が在るか無いかです。

さらに、『人』の「自己」「意識」「心」「認識」の【源】が「kan」という書き方だと違和感があります。
『人』の「自己」「意識」「心」「認識」と「kan」の作用(関係性)は似ていますが非なるもので「kan」は【『人』の「自己」「意識」「心」「認識」(起滅するもの)】の専用のものではありません。

「kan」はこの世の一切のものに不可分です。

「一切衆生悉有仏性」は、「『人』は「仏」に成れるすごい存在」という雰囲気を持ちますが、それだと違います。
「『人』が「仏」に成る。」は違います。
『人という形質』が滅すると、「仏」が残るだけです。
「『人』は、もともと「仏」です。」は違います。
『人』は、起滅の法にしたがって関係性が展開する実体のないものです。
煩悩を堰き止めることで「仏」に成るのではなく、煩悩は起滅の法に従って一切が滅する地点があり、そこでは「仏」のみが在る地点です。
本当の自分を探すことは、探す自分が滅し「kan」そのものが残される。残されるというより無始無終の原点そのもの、初期状態です。初期とか後期はないので、基底状態が適切かもしれません。
自分が「kan」に成るわけではない。自分は滅する。「kan」は「真の自己」ではなく、「探す自分」を「有と認める」作用です。厳密に「kan」は、自己の起源ではない。


「五蘊(仮我)を私と見なさない《私》」
「五蘊(仮我)は見せかけの私であり《私》に身につけている服飾品のようなものだ。」

この二つの文章に使われる《私》は、「真の自己」「真我」を意味しますが、「kan」を《私》と解釈してはならないと思います。『人』の思考の癖です。自分に似せてしまう。
ただこの文章は、悟りの経験を持つという状態の『人』の素直な感想だと思います。
「私(仮我)は、《私》(真我)だったんだ!」は素直な感想です。


「悟りの境地に至り、真の自己を実現しました。(自己実現)」
「大死一番、絶後再び蘇る」
「得がたき王を知って初めて本当の主となり、自己の確立がある。」
「本来の面目を知り、自らの主になる」
「神のもとに復帰し、内なる人となって再生する。」
「悟り以前の「個人の私」(仮和合の五蘊)は死んで、真の自己として蘇る。」
「私は《私》だった。」
「今我々が自分と呼んでいるもの(偽の自己)は、真の自己ではない。」
「仮我が無自性空と体験的に知って初めて自らの大我を悟る。」
「われわれが自己と見なしている仮我は二義的なものに過ぎない。」
「この仮我を自分と見なす。」
「汝、自らを知れ。」
「自己について無知である。」
「われわれは自分というものを心身からなると考えるが、それが仮我に過ぎない。つまり、私たちが何の疑いもなく当たり前に使っている私というものが、それほど確かな存在ではないということだ。」

と、こうなると悟り以前の個人の私は、「偽の自己」ということになるのでしょうか?

「kan」を用いて、「偽の自己」「真の自己」の関係を説明します。
『人』は常に「kan」が不可分に存在し展開します。「kan」は「真の自己」と呼ばれるもので、『人』は常に「真の自己」という構造です。「偽の自己」だったことはないです。
『人』は、既に今、仏性を持っています。「偽の自己」は起滅する領域にある五蘊です。起滅する五蘊に対する認識の中心に「kan」は常に在ります。
究明すべき自己は、今既にここに在ります。
「仏」と一つになるための、偽の自己はなく、今、すでに「仏」です。『人』を保ったまま「仏」を具えています。
「人は、すでに悟っている」とは、すでに「仏」だということです。五蘊に覆われている「仏」です。心本来清浄、五蘊に覆われていても「仏」は何の影響も変化も受けません。
「仏」は見失うことがあっても、無くしてしまうことはなく、悟りは見失っていた「仏」を再発見することです。


この画像は、アナログ放送の砂嵐です。

動画の砂嵐を、ジッと見つめていると渦が見えます。錯視です。
この渦は、右回り左回り、両方見えます。私の場合、先ず右回転の渦が複数見えます。集中すると左回転に反転することができます。
この渦は、画面のどの位置でも見えます。これは、どの位置でも渦の中心点に成るということです。

渦が「五蘊」で、渦がない状態が「五蘊皆空」です。
渦がない状態で「如実知自心」⇒「自心仏」と知ることになります。
「血肉煩悩で覆うがゆえに見えていない」のが「自心仏」ということです。

『人』は、[煩悩・五蘊・仮我]に覆われていて「自心」を如実に知ることができない構造です。

五蘊が空に潜在し、何も現象が存在しないとき「自心仏」(真の自己)そのものに成ることによって「自心仏」を知ります。仏に成ることです。(成仏)
「仏」を自覚する状態に復帰することが往生です。(「仏」という「不生の生」に復帰する。)
「自心仏」そのものに成るというより、ずっと五蘊に覆われていた「自心仏」がむき出しに成るということです。むき出しになると、「仏」は自心のものではなく、遍在するものという構造になります。
五蘊皆空の境地で、「仏」が生じるわけではありません。「仏」と一如になるわけではありません。五蘊に覆われていても、どんな『人』も「仏眼」(仏)は常に開かれています。そうでなければ五蘊は観えません。「今自分は世界を認識しているんだ」と思えているなら、それは「kan」(仏)がそこに在るからです。
「仏」の観照の焦点そのものは常にあります。

「実のところ、われわれはかつて一度も生まれたこともなければ死んだこともない。」
「自己の本分は流転することがない故に、常に変わらず仏(真我)だったと悟りの境地で知る。」
この二つの文章は、悟りの境地を知覚した絶後の『人』が持つ素直な感想です。
渦の中心の無次元の点が、渦の流れに属さない構造により、生死に流転することがないことが物理的に理解できます。渦が消えれば、全体が渦の中心となる構造です。
「仏」が遍在する構造が理解できます。

ただし、『人』が本来「仏」なのではなく、「仏」の遍在した時空に『人』が展開している。
「「仏」としての私たち自身を知る。」だと違います。
「仏」は『人』の本分ではなく、『人』という渦が消えて、明らかになるものです。

不生不滅の「仏」、とこのように表現するとことは『人』中心の理解で、不生成不消滅の「有と認める作用」の方が適切な表現です。

「実のところ、われわれはかつて一度も生まれたこともなければ死んだこともない。」
「自己の本分は流転することがない故に、常に変わらず仏(真我)だったと悟りの境地で知る。」
この二つの文章は、素直な感想ですが、『人』中心の理解になります。

「あなたが無限の存在であることを悟るのだ。」
「私が無限の存在であることを悟るのだ。」
と表現すると『人』中心の理解です。「あなた」「私」が滅すると、無限の「有と認識する作用」(仏)そのものが残るだけです。

「あなた」「私」が存在するときも、認識の焦点に「有と認識する作用」は、在ります。

「私は、宇宙に遍在する。」というより、単に物理的(実相的)に「有と認識する作用」(kan)が遍在するだけです。

「kan」を知覚すると、「神の目を通して観る」という感覚が生じますが、その感覚は、すでに消滅する領域の感覚です。「kan」は、「神の目を通して観る」を「有と認識する作用」によってこの世に顕在化するだけです。

「私は在る」もなんだか伝わりにくいと感じます。違うと感じます。『人』中心の解釈です。ただの「kan」です。

「仏」を知るのは絶後再生の『人』です。
「確かに「自心仏」なんだ!」と思考します。悟りを体験的に知った『人』になります。
「自心仏」(真の自己)そのものは「無所得」です。「有と認める作用」のみです。(「無ではないとするための観る」という構造、眼球の「見る」とは似ていても違う)

「有と認める作用」のみが常なるもので起滅するものではありません。
起滅するものが寂滅する刹那「仏」(有と認める作用)のみが明らかになります。
たった今、全ての人は「仏」を有していて、有していなかったことがありません。
「仏」が無ければ、『人』の精神、『人』の意識、『人』の主観、『人』の私という感覚は無と同等です。『人』の持ちうる目的・行動・感情・意思・理由も無です。
『人』の精神、『人』の意識、『人』の主観、『人』の私という感覚、『人』を仮和合する五蘊、これらは、起滅・振動・循環・干渉する無常の領域、悟りの境地で空に潜在する領域、無自性、実体のない(無我)領域です。どんなに瑞々しくリアルで実体があると感じる個人の意識も実体のない領域のものです。
「全てが衰退し朽ち果て崩壊する、陽子さえ崩壊する。」というレベルだけでなく空に潜在し、存在そのものが滅するということにより実体がありません。
「世間における一切のものは虚妄である」とはこのことです。
『人』の領域で、功徳、善行を積むことは、虚妄・起滅の領域です。
どんなに美しい言葉・思考・起滅するものへの祈り(平和、健康長寿、家内安全など)も徹底的に根こそぎ虚妄・起滅の領域です。
善悪・愛憎・悲喜・快苦・生死、『人』が持ちうる思考の全ては、虚妄・起滅の領域です。
起滅する領域の『人』の心をこの世の価値観で善とされることを行うことで悟ることはありません。

起滅・振動が滅することを『人』は、至福・平安として解釈します。
振動する両極を平等に見ることを『人』は、愛・慈悲として解釈します。
「kan」によって存在を認められることを究極の愛だと解釈します。

それそのもので存在するのは「仏」(有と認める作用)だけです。
無次元の点の物理作用が「仏」ということです。
無次元の点が時空に遍在すると言うことは、「仏」が遍在するということです。

「仏」を「真の自己」「心の本源」「意識の本源」「人類共有の意識」「普遍的自己」「集合的無意識」と表現することは違うと感じます。

「真の自己」「心の本源」「意識の本源」「人類共有の意識」「普遍的自己」「集合的無意識」このような名付けは、そこから個人の「意識」「自己」「心」が分岐して生まれるとか、繋がっているというような感じを受けてしまいます。
何だか違うと感じます。渦と渦の中心点の関係でただ物理的に不可分なだけで「生まれる」「繋がっている」は違う。

例えば、太陽系を考えてみます。【地球が中心だと思っていたら太陽が中心だった。】が「真の自己」レベルの話で、真の中心は無次元の点であり、そこが「仏」ということです。
何が言いたいかというと、「仏」は本源というより不可分ということです。
無次元の点が「仏」(有と認める作用)で、太陽が「自己を統合している私」です。この二つは作用が似て非なるものです。非常に似ています。

テレビ画面のどの位置も渦の中心に成ることができる。渦はどの位置にも見ることができます。中心点は遍在するという見方ができます。
渦の中心は「仏」(有と認める作用)そのものの特性があります。

⇒テレビ画面は、隅々まで「仏」(有と認める作用)に満たされている構造になります。
「仏」に満たされた画面上に『人』を現わす五蘊が展開します。

「仏」は、『人』に携帯されて移動するわけではありません。
『人』が移動するとき、その位置その位置の「仏」を付与されます。

簡単に、仏眼で説明します。

仏眼とした理由は、「真の自己」だと自分から遊離した感触があるし、「仏」だと「え?どこ?」ってなりそうだし、おでこの第三の眼「仏眼」が解りやすいと思います。
このおでこに感じる「仏眼」が「仏」「仏性」「神」「大日如来」「観自在」「真の自己」「本来の面目」です。『人』(仮和合の五蘊)が空に潜在すると如実に知ることに成ります。

「仏眼が人間の所有物で五蘊に覆われているがゆえに明確に見ることができない。」と思っていたら、仏眼は時空を隅々まで満たしていて、そこに『人』が展開しているだけだった。内と外ではなく、仏眼が遍在しています。仏眼は、全体です。
仏眼(仏性)は、『人』とともに移動したりするものではなかった。
仏眼(仏性)は、この世の次元でも空の次元でも不生不滅の常なるものだった。

『人』を現わす五蘊は、渦に単純化できます。
台風の中心の雲のない部分は「台風の目」と呼ばれます。
台風が移動するとき、雲の渦が移動していきます。
渦の構造そのものが移動し「台風の目」の構造も一緒に移動します。台風の眼の領域の空間そのものが移動するわけではない。移動した先の空間上に「台風の目」が展開します。

何が言いたいかというと、『人』は、その位置その位置の仏眼によって、『人』の五蘊を「観る」(見るを観る、聞くを観る、意識を観るなど)という構造を持ちます。各瞬間の「今」において別の「仏眼」(観る)を用います。一瞬ごとに別の「真の自己」を用います。その「仏眼」「真の自己」が唯一として存在します。
仏眼(仏性)は、時空を満たし移動しません。そして、唯一として存在する。

仏眼(仏性)は、時空に遍在し、かつ、唯一として存在するので、「全て自分」という構造となります。
仏眼を原点として(仏眼を一点に圧縮)、三世全ての『人』の五蘊を「観る」(有と認める)構造です。
歩いているのではなく、歩いているという関係の情報を「観る」ということです。一歩も動いたことがありません。生死も「観る」を覆う起滅する情報です。
この文章の「観る」は「確かに実態を持つ、と認める作用」「無ではなく有であるとする作用」のことです。

『人』は『人』が思うほど特別な存在ではありません。
起滅の振動の関係性が高次化したものでウイルスより複雑なだけです。
『人』は、「仏眼」(仏性)に満たされた時空を『起滅の法』(万物の理論)に従って展開する模様みたいなものです。
『人』を存在させるために世界があるわけでありません。悟りを実現するという目的があって『人』が存在するわけではありません。数式に従って、ただそうあるだけです。
『人』が「私とは何か?」と問わずにいられないのは、ただの物理的要請(実相的要請)です。

「自分探し」という価値観が生まれた時代から「全て自分」という価値観(世界観)が常識の時代になるといいな(^.^)。

「全て自分」という構造は、解脱という救いは存在しないということです。

「悟り」は『人』の五蘊の振動がゼロになる地点です。五蘊の滅です。五蘊の振動はゼロに潜在しても独立性を持って保存されます。
「悟りの境地」を経ても(「悟った」という過去の構造があっても)また五蘊の振動は現われます。(これは、悟っても精神が常に安定されるわけではないということです。普通の『人』です。)
仏教の救いとは、「五蘊の完全な滅」です。しかし、その救いは、『人』から見て、刹那であって救いになりません。そして、「全て自分」です。

「死ぬと無になる。」ということは不可能です。

逆に、「全て自分」であり、「無」「完全な滅」が不可能であることが救いになる人もいると思います。
「始めもなければ終わりもない永遠の命を知って始めて我々は真に安らぐ」と言う文章を見かけます。
例え自分が死んだとしても、70億人以上の『人』の五蘊が自分の死後も開かれている。時空には、自分の来世として判定される『人』も存在します。

しかし「自心仏」「仏眼」「仏性」に対して、「永遠の命」と名づけることに拒否感があります。「永遠の命」と名づけていいほど、「仏眼」は『人』の所有物ではないと感じます。
仏眼(仏性)は、『人』専用の所有物ではありません。
「仏とは我が心の異名なり」と表現していいほど「仏」は「我が」の具えたものではありません。
「仏とは我々の心の本性に他ならない。」と表現していいほど「仏」は「我々の」所有するものではありません。

悟りを「不死の境地」と表現すると、人がたどり着くべき特別で素晴らしいものという雰囲気が漂うので違うと感じます。悟りは、生死という展開が滅する地点で数式に従い現われる物理的な現象です。『人』も滅する地点であり、『人』が「不死の境地」を手に入れるわけではありません。

2500年前に、ゴータマ・ブッダは、「仏性」というものが私たち各人に備わっていると教えるために説法を始めました。

いまだゴータマ・ブッダが過去最上の、誰も及ばない素晴らしい存在という感触の勢いは衰えていません。外国は無神論者が増えているとは聞きますが・・・。
ゴータマ・ブッダの哲学・世界観を科学的世界観によってより精緻なものにしていくことはできるのでしょうか?
現実の根本的な性質を真剣に考えるときは既に来ていると思います。
実相の科学的理解による「全て自分」が常識になるでしょうか?
『人』の思考は、相依性を持ち単独で一局の思考を持つことができません。
相対性理論でさえ、受容的に振る舞う存在と、拒否的に振る舞う人が存在します。人がどのような思考を持つかは相依的に閾値をやりとりする関係で数式に従います。思考の状態がある閾値に達すれば、受容と拒否が振り分けられます。どんなに証拠があり「これば正解」という思考が生じてもそれは絶対の思考ではありません。「これは正解」という思考が単独で存在しません。

それでも、事象の根底を正しく示す真理は存在します。(この思考が既に絶対ではありませんが・・・)

それが示す世界観は、「持ちうるものを共有したり平等に分配したくなる世界観、その対象は現生人類だけでなく未来の人類も含む。」だと思います。慈悲やまごころではなく、そうせざるを得ない構造です。
慈悲やまごころ、尊厳で「愛と平和を永続させる」ことは不可能です。(慈悲やまごころでそれが実現できるという話の方が受けがいいですが)

砂山で例えると底面が狭くとがった形は直ぐに崩れてしまいます。自分でペンペンと潰して(分配)するとまた上に砂を積むことが存続できます。格差と世界の存続は関係性があると思います。自分でペンペンするか、何らかの事象が起きるかです。

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます。

おまけ
幼い子供のマーチングを描きたくなりました。

ところで、肉眼で見るとき、世界は滑らかではなく、針の先ほどのドットで埋め尽くされていませんか?
こうです。

このドットの一点を見つめると、砂嵐と同じで渦が見えます。これは何なんでしょう?

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