見出し画像

「悟り⇒全知⇒全ての人生が等しく自分」の物理

こんにちは、領です。

「今だけ・金だけ・自分だけ」
「金だけ」は「今だけ・自分だけ」の付録なので省略して

「今だけ・自分だけ」としてシンプルに扱います。

「今だけ・自分だけ」とは、究極の個人の範囲の状態です。
「究極の個人」の逆は、「全ての個人が自分」です。

「今だけ・自分だけ」という思考によって、残酷なことが起きたりします。
この思考を反転するには「全ての個人が自分」という思考が有効です。

観念、道徳、仮定、理想論としてではありません。
物理的事実としての「全ての個人が自分」です。
万物の理論が導き出す「全ての個人が自分」です。

悟りとは、全知状態のことです。
全知は+∞と-∞を観ることにより、重なってゼロの状態をとります。
+∞-∞は、この世の現象の一切のことです。相反する性質として存在する一切です。

悟りが存在するとは、全知が存在するということです。悟り=全知です。
全知とは、この世の一切を観る状態です。
全知とは、この世の一切の人生を「唯一の焦点」が認知している物理状態です。

現在で見ると・・・
地球人類、約80億人の人生は、唯一の焦点を共有しています。
全知が存在するなら「全ての人生が等しく自分」でなければなりません。
目の前の他者は、「自分が自分と感じている自分」が宿っています。

細かい補足
集合的無意識は、深くて大きなものというイメージを持つかもしれませんが、究極は一つの焦点にいたります。無次元の点です。そこに全てを有と認める作用が存在します。
「自分が自分と感じている自分」はシンプルに「意識」のことです。
「意識」という構造も唯一として存在し、コピペのようなものです。共有して使われています。しかし、究極のものではありません。無次元の点の焦点が究極です。
なので唯我独尊は、究極を表わす言葉ではないと私は考えます。「我」で思考が留まると、宗教に留まり、物理に至れないと思います。
私は、究極の焦点のことを「観」(カン)と呼んでいます。十分宗教っぽいですが(^.^;)

細かい補足を考慮したうえで・・・
「全ての人生が等しく自分」です。
全知が存在するとは、全てを唯一の「目」が観ている構造です。
見るを確かに有であると観る「目」
聞くを確かに有であると観る「目」
嗅ぐを確かに有であると観る「目」
味わうを確かに有であると観る「目」
身体感覚を確かに有であると観る「目」
意識を確かに有であると観る「目」

全ての人生をこの「目」が等しく観ています。
「あなたの人生、私の人生」という偏りはありません、全て私の人生です。最上位の「目」は、それを可能にする構造を持ちます。平行世界に枝分かれした私は、一体誰なの?ではなく、自分です。自分が全ての人生を覗きます。

「夫に腹が立ったので、夫の歯ブラシでトイレ掃除しました」
これ本当にゾッとします。文章見るのも嫌です。自分の口です。

全知とは、全ての人生が等しく自分という構造です。

これから地球はどうなるのでしょうか?
日本の片隅に暮らしている私でも不安です。

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます。

おまけ
『DCU』というドラマを見ていて「川の流れは必ず海に出る」という台詞があって、「人の人生も必ず悟りに至る」と考えました。
観念や「そうであって欲しい」という雰囲気ではなく、川、海というものの構造と同じように、単純に物理的に「人の人生も必ず悟りに至る」という意味です。

よろしければサポートお願いします。