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量子力学と縁起縁滅の法

こんにちは、領です。

『量子力学の奥深くに隠されているもの コペンハーゲン解釈から多世界理論へ 
ショーン・キャロル』

この本を読んで思ったことは、量子力学を理解する探求と、縁起縁滅を理解する探求とは、まったく同じということです。この二つは似ているのではなく同じものです。
P352「宇宙の理解にいたるまでのルートは量子化された重力にあるわけではなく、量子力学の中に重力を見つけることにある―――この見込みはとても真に迫っているように思われる。」
量子力学は、そのまま万物の理論の候補か、それに近い存在だと思います。量子力学や波動関数、シュレーディンガー方程式の性質を知ることによって、縁起縁滅の法を数学や物理として理解を深めることができます。

キャッチボールをするときに、投げる角度や初速度、描く放物線、到達地点などを考えて投げることはしません。感覚で投げます。
私は私なりの瞑想をしていたら、「照見五蘊皆空」という五蘊が消滅する地点を知りました。直後、世界が展開する中で一気に私が持つ疑問に対する答えのイメージが現われました。そのイメージを使って縁起縁滅の法について言葉にしています。
何が言いたいかというと、私自身は特に物理や数学に強くはないので、私の量子力学についての理解は、趣味レベルということです。基本は、私の持つイメージの感覚で縁起縁滅の法についてあれこれ書いています。

P8 量子力学は魔術ではない。これは今の私たちが持ちうる現実観としても、最も深い、最も包括的なものだ。現在わかっているかぎり、量子力学は単なる真実の近似ではない。真実そのものである。
P13 昔ながらの直感的なものの考え方から頭を自由にすれば、量子力学はどうしょうもなく不可思議なものでも神秘的なものでもないことがわかるだろう。これはただの物理学なのだ。(引用終わり)

P8、P13の文章は、「量子力学」を「縁起縁滅の法」に入れ替えて読めます。
「昔ながらの直感的なものの考え方」とは、般若心経の「顛倒夢想」のものの考え方のことです。
「顛倒夢想」とは、五蘊をコントロールし、苦を制し楽を享受すること。思うとおりに五蘊を維持し、執着し常を願うこと。五蘊は物理的時空に独立自存し、実体を持って存在すると思うこと。
私たちが日常考える世界観は、量子力学が記述する世界観からすると顛倒夢想といえます。

P284 「それ以前の一九世紀、物理学者は、粒子と場の両方が役割を果たしているという見方をかためつつあるようだった。つまり物質は粒子でできていて、その粒子を相互作用させる力を記述するのが場だという見方である。今日では、それよりもずっと多くのことがわかっている。みんなの知っている大好きな粒子でさえも、実際には、身の回りの空間に広がっている場に生じた振動なのである。」

量子力学と縁起縁滅の法は、波の性質をもった振動のことです。
振動という変化の関係性は、一つの状態に留まることはできない、諸行無常です。
振動という変化の関係性は、我(が)を含めて実体を持ったものは存在していない、諸法無我です。
振動という変化の関係性がなければ、存在が現われることはない、また、全ての振動が重なると無に潜在する、空です。
全時空の振動の変化と関係し、独立自存の振動は存在できないことも含めて縁起縁滅の法です。
これは振動することが存在することであって、人は、心地よい状態と悪い状態の両方に振動しなければ存在を維持することはできないということです。これは、「なんとなくそうだ」というレベルではなくて、物理的にそうなっているということです。

今の時代でも起きる、民族浄化、内戦、大量虐殺、空爆、武力による弾圧。大量の原子爆弾、放射能汚染、あおり運転、人の尊厳を踏みにじるハラスメント、自殺まで追い込むからかいいじめ、児童虐待、動物虐待、行きすぎた利己主義、生老病死・・・。これらが存在することと、この世が存在を現わすことは、関係しています。
みんなが平和を求めるわけではない構造です。なぜか基本的な善悪も教えない親が存在する。これは「なぜか」ではなく、物理的に不可避に存在します。

これは、一切皆苦といえます。
「少しの平安を大切に日々感謝して生きる」という状態も存在しますが、維持し続けることはできません。
同じ状態を維持しないように確実に世界は展開します。

P280 「私たちが持っている非常に単純で、非常に説得力のある世界のモデルでは、現実が私たちとは無関係に存在している。私たちが観測したり想定したりすることによって現実を出現させているのだと考える必要はどこにもないのだ。」

時空に独立した自由意思は存在しません。縁起縁滅の法から逃れた自由意思は存在しません。全ては法に従って決定論で存在します。
自由になっていない、自由だと思っている意思という状態が存在します。
「この世は、私が創造している」「自由意思は存在する」などの思考も数式に従って存在します。ただただ数式に従っているに過ぎない思考にたいして「自由意思は存在しません」とわざわざ書くことは滑稽ですが、そんなことも含めて数式に従って存在します。

P328 「曲がった時空がいかにして量子的な基盤から現われるのか」
P338 「空間や場から出発して、それらを量子化したいのではない。本来が量子的である波動関数から、それらを抽出したいのである。」

「時空が基礎的なものでなく、波動関数から現われる。」という考えについて書かれています。この文章自体はわかりますが、説明の部分は難しいです。

私のイメージは、ある特定の視点から観て「引く」「斥ける」という関係、つまり、中心に対しての相反する逆向きの動き、変化の関係が波の性質の方程式にしたがって展開し、関係性が高次化した部分に人という関係性が形成、消滅するというものです。
この世は、「引く」「斥ける」の関係でできています。「近くなっていくか」「遠くなっていくか」、「受容するか」「拒否するか」とも言い換えられます。

『生命はデジタルでできている 田口義弘』
P31「複製を容易にするためにDNAはAとT、GとCが向き合うとエネルギーが低くなる、という原理を持ち込んだ。エネルギーが低くなる、というとちょっと難しい感じがするが、簡単に言えば「引力」が働いているということだ。」この本のここの文章を思い出しました。

あらゆるパターンの「引く」「斥ける」をまとった「無次元の点」ということをふと思いました。電子という素粒子ではなく、電子として振る舞う仮想粒子をまとった「無次元の点」、かなり高次化した「引く」「斥ける」をまとった人として振る舞う「無次元の点」最高次化すると、「引く」「斥ける」の可能な関係性をすべてまとった「特異点」となります。
「無次元の点」は、何もまとわない状態から、可能な関係性の全てをまとった無次元の点(特異点)までがあります。

「無次元の点」は、全くの無ではないときの「観」という物理的作用を持ちます。「観」は、確かに無ではないとする存在を認める作用があります。人の自己感、「私」というものに実在の感触をもたらします。あらゆるパターンの振る舞いの中心に「観」が作用します。空間に無次元の点が無限に存在し遍在するように、「観」という作用は時空に遍在します。最高次でもある無次元の点の「観」の作用は、唯一として存在する構造です。
「観」が唯一として存在し、この唯一の「観」が全ての存在を認めます。過去から未来に流れる時間は存在せず、全ての「今」とされる構造を今認めます。誰かの今という構造ではありません。全ての今を唯一のモノが観ています。モノといっても無次元の点の物理的性質です。「観」という作用がなければ、今まで通り喜怒哀楽があるように振る舞っても主観を伴わない哲学ゾンビの状態となります。

人は、自分の言葉に深い意味や真実があると思ってしまう。
「人は、自分の言葉に深い意味や真実があると思ってしまう。」という展開が形成されているだけです。

悟りという構造に対して引きつけられるのは物理的な構造です。抽象的な構造により、悟りという思考、構造の一定の近くでは、悟りの引力に捉えられるイメージです。捉えられるといっても、それは決定論で避けようがないです。
「悟りに対してそっぽを向く、無関心な存在がいて、悟りに対して引き寄せられる存在がいる。」という考え方は、何か違います。自分でそっぽを向いたり、自分で引き寄せられるわけではなくて、水に浮かべた花粉が水分子に当たってフラフラ動くように、「自分で」ではなく物理的に決定された振る舞いです。「自分の努力で悟る」わけではありません。
この世には、相互作用をしていない独立自存のものは存在しません。

P271 古典的な決定論的宇宙では、結果は厳密に同じになるので、「違う意思決定」ができていた可能性はゼロである。対照的に、教科書量子力学に従えば、ランダムさの要素が導入されるので、同じ初期条件から正確に同じ未来の結果を確実に予言することはできない。
 しかし、それは自由意思とは関係ない。違う結果が出るからといって、ある種の個人的で超物理的な意思による影響が自然法則に及ぼされることを証明していることにはならない。それはただ、予言不可能な量子的な乱数がさまざまに介入することを意味しているだけだ。自由意思の伝統的な「強い」概念にとって重要なのは、私たちが決定論的な自然法則に支配されているのかどうかではなく、あらゆる類いの非個人的な法則に支配されているかどうかである。未来を予言できないという事実と、未来をいかようにもできるという考えは別のものだ。教科書量子力学においてさえ、人間はやはり物理法則にしたがう粒子と場の集まりなのである。
 その意味では、量子力学は必ずしも非決定論的ではない。多世界理論がいい反例だ。あなたは一人の人物から完璧に決定論的に時間発展して、未来には多数の人物になっている。そのどこにも選択の入る余地はない。
P272 この世界は私たちが私たちの行為によって生み出すのではない。私たちの行為がこの世界の一部なのである。(引用終わり)

私のイメージを書きます。
人の思考パターン限界があって、自由意思が存在しないのではなく、根本的に自由意思は存在しません。観察によって世界が分岐したりするわけではなく、可能なあらゆる分岐のパターンは尽くされていて、そこには人の観察、カメラの観察、あらゆる相互作用は、分岐した世界に存在するだけです。

ここで思うことは、造波装置のことです。ぐるりと造波装置に囲まれた水槽にわらわらと波が集まってきて一瞬「波」という文字が浮かび上がります。テレビで見ました。
本当に一瞬の「波」なのでスロー再生して確認していたぐらいでした。
「波」の完成で終わりではなくて、干渉しても独立性が保たれた波は「波」の完成のあともわらわらと広がります。
なんだか無意識と意識の関係だと思いました。
智慧の完成とは、単純に全知のことです。縁起縁滅の法を観察すると全知に至る構造ということです。全知の状態は、全てが重なり合って統一されて何も存在しません。エネルギーの状態?全てが無限大の特異点?確実なことはいえないけれど、電子として振る舞う点、人として振る舞う点、全知の点ということを書きます。
「波」の文字と同じように、智慧の完成は終着点やゴールではありません。そこで終わりの完成は人にとって存在しません。涅槃寂静はスロー再生が必要なくらいの刹那です。
悟りは、振動や関係性が解消される地点で、シンプルに「滅」です。関係性が解消されるとか、業が解消されるなどと表現するとき、関係性の全てを観るとき関係性が解消されるのであって、単純に何もない状態の解消ではありません。
悟った存在が悠々自適に暮らす領域は存在しません。
その「滅」の境地の無次元の点に(または特異点)至ると「観」という作用そのものを領解します。「観」は、全ての人が共有していることを直感します。一人の個人が点で悟るわけではありません。人に限って見てみると、一人の個人が悟ったとするには全ての人が不可欠です。単独でそこに「滅」が起きるわけではありません。造波装置の「波」の文字と同じです。

「観」という物理構造が共有されているということは、全ての人が同一人物という構造です。誰か個人の悟りという構造ではありません。悟りに限らず、全ての事象が誰か個人のモノではありません。目の前に広がる全ての人の人生を自分のモノとして生きます。誰か個人の解脱という構造が存在しないということです。

この世の、尊敬する憧れる存在は、自分自身です。仏陀もアインシュタインも自分という構造です。記憶から離れない犯罪の加害者被害者も自分という構造です。

ここまで無味乾燥な世界観をイメージしてきましたが、日常は今まで通り生きるだけです。
緊急事態宣言で自粛ということがきっかけで、NHK連続テレビ小説『おちょやん』を見始めました。千代と一平が離縁することになったときは、悲しくて悲しくて涙が止まらなかったです。そこをわざわざ、この世は、波動関数から創発したモノに過ぎないと考えたりしません。


ただ、「全ての人が自分」という理解は、生き方に影響すると思います。

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます。

おまけ
P376 「互いに量子もつれの状態になった自由度が集まって、近似的に古典的な時空の幾何学の輪中を生む」

この文章を読んだとき、私の瞑想のような行為に似ていると思いました。自分の記憶やそれに伴う身体感覚の振動を観察して幾何学的な構造に組み上げるというものです。

他にも『量子力学の奥深くに隠されているもの』で興味深い文章です。
P13 多世界理論は、量子力学を理解する最も純粋な方法であり、量子力学をまじめに受け止めることに最も抵抗を感じずにすむ道をたどっていけば、最終的にはそこに行き着くのだと。とくに、多数の世界というのはすでに確立している数学的形式の予言するところであって、誰かに勝手に付け加えられたものではない。
P14 しかし、そろそろ現実の根本的な性質を真剣に考えてみるときに来ている。それはつまり、量子力学に正面から向き合うということなのである。
P46 従来の古典的な直感から抜け出す道は、電子に何らかの位置があるという考えをばっさりと捨てることである。電子は、その電子が見つかる可能性のあらゆる位置の重ね合わせの状態にあって、電子があるところに実際に存在するのを私たちが観測するまでは、どの特定の位置にはめこまれない。「重ね合わせ」とは、電子があらゆる位置の組み合わせの中に存在することを強調するために物理学者が用いる用語で、それぞれの位置には特定の振幅がある。量子的現実は波動関数なのであり、古典的な位置と速度は、私たちがその波動関数を探ったときに観測できるものであるにすぎない。
P53 一個の電子が様々な位置の重ね合わせの状態で存在できることをひとたび認めれば、その当然の帰結として、一人の人間がさまざまな異なる位置に電子を見つける重ね合わせの状態で存在しうるし、実際、その現実が全体として重ね合わせの状態にあるすべての観点を個別の「世界」として扱うのが自然となるのである。量子力学には何も付け足されていない。そこにずっとあったものがきちんと直視されただけのことである。
P140 宇宙のことを量子の観点から論じるなら、古典的な領域を別に切り分けることができないのは明らかだ。宇宙の中にいる観測者も含め、宇宙のすべての部分を量子力学の規則にしたがって扱わなければならない。そこにあるのはただ一つの量子状態だけであり、この状態は「普遍的波動関数」(これはエヴァレットによる呼称だが、今の一般的な呼称で言えば「宇宙の波動関数」)によって記述される。
P165 そのほか同様に、0と1のあらゆる可能な羅列がある。もしエヴァレットが正しければ、これらの可能性のそれぞれが、ある特定の世界で実現される可能性は100%だ。
P275 多世界量子力学は真に機械論的な理論であって、観測者や経験に特別な役割を何も与えていない。意識のある観測者ももちろん残りの波動関数といっしょに分岐するが、それは岩も川も雲も同じだ。
P286突きつめれば多世界理論は、何かしらの「もの」についての理論ではなく、シュレーディンガー方程式のもとで時間発展する量子状態そのものについての理論だ。
P289 多世界理論は、波動関数というたった一つの数学的対象を使って宇宙を記述する。
P353 では、エネルギーがきっかりゼロの系があったらどうなるだろう。シュレーディンガー方程式にしたがうならば、その系はまったく時間発展しない。
P355 宇宙のエネルギーが実際にゼロなのかどうかについては、いまだ結論が出ていない。したがって、時間が創発的なものかどうかもまだわからない。
P375 空間そのものは基礎的なものではない。ある特定の視点から論じるのに有益な手段であるというだけだ。
(引用終わり)

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