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無分別。

2月もたけなわになってきました。
あったかい日があるかと思うと、凍りつくような
風が吹く日があったり。
しかし、冬は冬の風情を楽しむのもよきかな。

今年は雪が多いですが、雪の多い年は豊作といいますから
今日の難儀はともかくとして、明日の実りを
楽しみにしたいですね。

写真は壇上伽藍西塔。基本非公開ですが、中の仏さまの配置は大塔と逆、だそうです。

無分別。
これも仏教用語です。

普通はよくない意味に使いますね。
辞書的な意味としては
「分別がないこと。思慮がなく軽率なこと。またはそのさま。」
を指します。

仏教的な意味としては
「分別から離れていること。主体と客体を区別し対象を
 言葉や概念によって分析的に把握しようとしないこと。
 この無分別による智慧を 『無分別智』 あるいは 『根本智』 と呼び、
 根本智に基づいた上で対象のさまざまなあり方をとらわれなしに
 知る智慧を 『後得智(ごとくち)』 と呼ぶ。」
ということ。

つまり、無分別は仏教的にはポジティブな意味です。

世界を理解する方法として分別することも必要。
差異を見つけ、分類し、細分化し、分析して同定する。
これは科学的方法。
物理の世界を理解するためにはこの方法が適しています。

私たちは物理的な存在でもあるので、こちらの方法から
生まれたものから多大な利益を得ています。
文明、医学、薬学、工学、化学、物理学。
これらが私たち人間社会にもたらした恩恵はとても大きいものです。

冬に暖かく夏に涼しい部屋で快適に過ごせるとか、
短時間で遠くに移動できるとか、遠くで起こってることを
居ながらにして知ることができるとか、体の悪い部分を
切除したり投薬などで改善することができるとか、
季節でないものを食べることができるとか。

以前にも書いたことがありますが、これはほんの数十年前、
数百年前の人たちにとっては夢物語のようなもの。

そういう人たちが夢見た未来が現実となって
今の私たちが受け取っているのですね。

仏教が求める無分別智は主客の別や分析的把握を
しないというだけではなく、それを超えたところを観る
ということでもあります。

物理を超えた世界を理解するやり方。
それは、ただひとえに分別的な知恵を捨てるのではなく、
身につけた上で超える、ということが大切なんじゃないかな
と思うわけです。

感覚や直感、瞑想や哲学、宗教的研鑽によってそこにアプローチ
することが古来行われてきましたし、この方法は現代でも
有効であり、強く推奨されているもの。

しかし、数十年前、百年前、1000年前の、生きると
いうこと自体に非常にコストと労力と体力と筋力が必要だった
当時に行われてきたやり方ではおそらく、現在の私たちは
物理的部分での理解や体感が弱すぎるという気がします。

でも、生きることのコストが以前よりは少ないからこそ
これまで困難だった宗教的・精神的な達成を望むことも
できるようになったとも言えるのです。

そしてそれは、特別な誰かにだけ開かれたものではなく、
再現可能なものです。

初めて宇宙空間から地球を見たとき、地上では
相対化できなかったものを俯瞰する視点を
人間は得ることができました。

視点が大きくなること、今までとは違うものの見方が
できることは、無分別に近づくこと。

先人たちが生きて達成してきたことを受け継いで
私たちは進歩してきました。
過去のものを捨てるのではなく、その恩恵を受け取った上で
さらに積み上げて次に繋げていく。

物理的な世界の進歩も、精神的な世界の進歩も、
両方の側面からアプローチすることができます。

私たちは歴史の最前線にいるのですから、過去の遺産を有効に
活用した上でさらに一歩進んだものとする一石を積むことを
選びたいと思うのです。

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