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視野に限界はあるが、配慮に限界はない / 朝井リョウ「正欲」を読んで

朝井リョウの「正欲」を読んだ。

この本は、昨今当たり前のように聞く「多様性」をテーマにした小説だ。多様性とぱっと思い浮かべるのは、ジェンダーや国籍、健常者と障がい者などが同じ空感で共存している様子だろう。前提として、こうした共存が可能になっているのはとても素晴らしいし、尊いことだと思っている。

だが、朝井リョウはマジョリティが作った「多様性」という言葉では包括できない存在をとりあげ、僕らが言っている「多様性」は、結局は自分の視野の中で作った「多様性」でしか無いのでは、と疑問をなげかける。つまり、いくら勉強しても、自分の知れる範囲には限界があり、自分の視野から逃れることはできない、ということだ。

本書に関するインタビューの中でも朝井リョウは「視野」についてこんなコメントを残している。

「視野が広がりました」って、人間の成長を書く上で一番簡単な締め方だと思うんです。今回は、登場人物がいろんな経験を経て視野が広がる話よりも、こういう種類の視野で生きている人間が存在する、ということ自体を書きたかったんです。

自分の視野が広がった瞬間というのは、大なり小なり自分の成長を感じる。最近も仕事を通じて、自分がこれまで知らなかったことを知り、視野が広がったなと思った。日常的にも、聞いているラジオや読んでいる本を通じて、視野が広がったなと感じる瞬間は多い。

視野が広がるというのは、自分が知っている世界が増えるということだ。それこそ、「正欲」を読んで、自分の知り得なかった世界を知った。だが、作品の中でマイノリティとして描かれている人たちを100%理解するのは多分難しいと思った。作品内だけではない。きっと、一緒にいるパートナーや友達のことを100%理解することはできない。いくら視野が広がったとしても、やっぱりそれは自分のフィルターを通してでしかないからだ。

また、無意識の偏見(アンコンシャス・バイアス)という言葉があるように、どれだけ視野が広がっても、広がった視野のさらに先の存在は知ることもできないし、知らないからこそ、勝手に自分の視野の中で相手との関係を作ってしまう。

たしかに、視野を広げることには限界はあるかもしれない。だけど、自分の視野には限界がある、と認識することはできる。自分の視野に根ざした発言は、相手にとって普通では無いかも知れないと、想像力を働かせることは出来る。相手をジャッジしない、という態度も取れる。総じて言えば、「配慮」を意識することで、視野の限界を受け入れた上で、相手との関係を築けると思っている。

加えて言えば、視野を広げることを否定しているわけではない。視野が広がると言うことは、配慮できる範囲が広がることにもつながる。より豊かな想像力にもつながる。

小説を読み終えたとき、これは人が想像出来る範囲を広げる作品だと思った。そして、小説という存在の尊さを改めて感じた。

一人でも多くの人が「正欲」はもちろん、小説に触れる機会が増えたら嬉しいなと思う。


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