宮沢賢治やサン=テグジュペリに感動できる子どもになりたかった、というコンプレックス?
これはコンプレックスと呼ばれるものなのだろうか。宮沢賢治やサン=テグジュペリの言葉に惹かれる子ども時代を過ごしたかった、という感情がある。いや、あった、かもしれない。今は今の自分に充分満足していて、そういう感情からはちょっと遠くなっている。
その昔、中高生の頃1番小説を読んでいた時期、夏の文庫フェアが好きで、毎年必ず近くの本屋さんで眺めていた。各出版社が名作と呼ばれるような有名な作品のカバーを新しく復刻してだしていたのだけれど、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」は、新潮社で本当に真っ青な装丁の文庫本が出されていて、それが本当によくて買ったのが授業以外で手に取った初めての宮沢賢治だったと思う。結局読み切ることはなかった。本当に最初の方だけ読んだかな?もしかしたら、ほとんど読まずにどこかにいってしまったかもしれない。
星のおうじさまも、たぶん同じ頃くらいに読んだ。小学校の先生をしていたおばあちゃんの本棚から借りて読んだことを覚えている。おばあちゃんは、本の最後のページに自分で書き込みをしていて、ちゃんとは覚えていないけれど「大切なものは目に見えない」という話について、おばあちゃんが自分で気に入った文章を書き写していて、肝心の内容よりも、おばあちゃんがそうやって、自分がいいと思ったところを、本の最後に直接書き込んでいたところをよく覚えている。
こうやって自分の宮沢賢治とサン=テグジュペリに関する思い出を振りかえってみると、本の内容をちゃんと読めてなくても、一切覚えてなくても、けっして悪いことではないな、なんて思えてくる。
やっぱり自分にとってのコンプレックスのようなものは自分のなかでちゃんと溶けてしまっているんだなということに気づく。
でもやっぱり、憧れのクリエイターさんとかが「僕は学生時代宮沢賢治の言葉が好きで宮沢賢治の作品ばかり読んでいました」とか「自分が一番影響を受けた作品は星の王子さまです」みたいなことを言っているのをみるとぐぬぬぬという気持ちが全く生まれないわけではないので、また近いうちにまずは宮沢賢治からリベンジしてみてもいいかもな、と思う。
↓この配信中に上記の文章を書きました。
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