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フリムンシスターズとツイッター

先日、フリムンシスターズという舞台を見に行きました。
こう切り出すと、舞台鑑賞ブログのような内容になるかと期待すると思いますが、
今日書きたいことはその中のたったひとつのセリフ。

ヘラヘラ笑いながら自由を差し出すもんか!


このセリフは、主人公が今まで誰かの奴隷として生きてきて、嫌なことも好きなことも少なくて、それが当たり前だったけれど
責任を取るべき物事や守りたいものが生まれて
初めて自分の芯を持つようになり
その後のあるシーンで複数人のキャストで叫ばれるセリフの一部なんですが
なんだか特にグッときてしまいました。


実は最近、趣味のために使っているツイッターのフォロワー数が400人を超えました。

最初は自分のために楽しくて続けていたことが
多くの人の目に触れ、もっと見たいと思ってもらえて
フォローされている。

400なんてきっとちっぽけな数字だし、
そもそも1人フォローすることにそんなに重く考えている人なんていないでしょう。

でも、こうやって今まで浴びることのなかった注目を浴びると
どうしても周りの目が気になってしまうものなんだ
そう初めて知りました。

何を呟いても、これは需要に合っているのか?
嫌われないだろうか?フォロワーは減らないだろうか?元々仲良くしてくれている友達は変に思わないだろうか?驕り高ぶってないだろうか?誰かを傷つけていないだろうか?

今まで気にしていなかったところまでついつい気にしてしまい、息抜きの場所であった趣味が、なんとなく息が詰まる場所になっていきました。
誰に何を言われているわけでも無いのに、
一度得たものを失いたくないという不安が
私を苦しませているのだなと思いました。

自分自身の器の小ささに気づきながらも
それでも求めてくれる人たちに応えたいという気持ちで笑いながら続けていました。


でも先程のセリフを聞いて
あぁ、わたしは名も知らない顔も知らない400人のフォロワーの奴隷になっていたんだな
と感じました。

私は人の目や意見を気にすることが100%悪いことだとは思いません。
気にすることで見えてくるもの、他人に与えられる気遣いがあると思うからです。
でもそれにがんじがらめにされて自分が辛くなって、それでもなおヘラヘラ笑って自由を差し出しているのは
チャンチャラおかしい話だな、と
そう思いました。


このnoteも同じです。
少なからずこの記事を読んでくださる方がいる。
私の書いた文章を読んでみようと思ってくださる方がいる。
それ自体はとても嬉しいことですし、
せっかく時間を使ってくださった分、何かを返したい、心を動かしたい、傷つけたくないと思うのは当然持つべき感覚であると思います。

でも、何をどう書くかは自由。
自由の中に自分がある。
自由な世界の中で、どう表現するか、それが自分を表現するということ、何かを世の中に生み出すこと、
そう思いました。

そんなことを言ってもきっと私は
評価を気にしてしまう小さな人間だけれど
それでも
自分の自由を守って、強い笑顔を見せられる
そんな人間になりたいと
思いました。


そんなある日の日記。

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