震災支援に思うこと

【以下メモに書いたものを編集せずそのままに貼り付けます。時間のあるときに、しっかり書き直そうと思いますが、出てきたまま。】

この国の民は、あちこちで苦しんでいる

色んな境遇によって、生活にあえいでいるもの

心を病まされて生活にあえいでいるもの

など数多にいる


であるのに、震災ともなれば

人は一気にこれは助けようとする

自然災害によって突然生活を削がれたものには

なぜか総出で助けようとするのだ


それと、様々に普段より

生活が破綻している者たちと何が異なるのか

気付かぬ差別がそこにあると何故認識されないのか


生まれつき、とんでもない境遇に囲まれて

いかんともしがたく生活にあえいでいるものもいる

或いは生きている過程で、苦難に囲まれて

生活にあえがざるをえない境遇になったものもいる


例えば親が殺人犯、例えば何度も強姦されたもの

監禁された経験で病んでしまったもの

色んな人々をカウンセリングしてきた

彼らの苦しみは見向きもされない


ここまで極端な苦しみは

震度7に加えて近所の原発でも爆発したような苦しみとして

ここまでのものでなくても

大から中まで致し方ない事情で生活が破綻しているものがいる


これらには何故見向きもしないのか

何故同様に人々の心配が集まらぬのか


むしろ地震のほうが対策しうることもある

そもそも人が家を選ぶとき

その土地が地震にあうかどうか、

地盤はどうか、建物はどうか、

対策はどうするか、

それらをよく考えて選ぶものであり、

あるいは選ぶべきものであり、

むしろそれにより差別化がある


安い土地を選ぶ、

安い建物選ぶ、

その代わりリスクを取る、

そういう自分に対する責任を

あらかじめもって選んでそこにいるものである。


だから震災にあっても、

仕方ないなどと言っているのではないが

ただ、そういう計算の仕合というのが

資本主義にはあって

普段からそれによって人々の自由と

人々のそれによる自己責任があり

それらをかざし合って生きているではないか

私は、そもそもそれがおかしいと思っているが

それで生き合っているのだから、

震災だけ特別視されるべきではないというだけのこと

すべてが心配しあわれて、

すべてが助け合われるべきである

といっている、ということが究極の意図である。


対して、例えばいじめによってその後の人生が狂った場合などはどうか

虐待によって人生が狂った場合はどうか

震災とは違って、なかなか興味が持たれない

これは興味を持つ側のなるべく差別を起こさないように考えるべきという責務なのである

興味がわかないのではなく、

苦しんでいる人にどんな人がいるか、

というのを自分の範囲でいいからよく考えることには責務がある


震災はそれが思考停止したように

震災は支援するという、正義が

突然簡単に通るのだ

これは普段苦しんでいる者からすれば

差別に過ぎない

そういう差別、あるいは浅はかな動きによって

そもそもそういう人達は苦しんでいることが多い。

故にいわばセカンドレイプのような心地をする羽目になるのである。

ここでもないがしろにされるのか、

平等でないという枠組み、

浅はかな動きを見せつけられるのかと。


震災と違って、

そうした苦しみは予見しえないことも多い。

例えば生まれつき虐待家庭に生まれるなどすれば

予見など絶対にしようがない。

或いはいじめにあうことも、

不可抗力であり、予見もしえなかったりする。

であれば、予見して対策しうる震災よりたちが悪い。


またある人は、

同じ苦しみであっても耐えられる人もいるのだから

それも不平等であり、耐えられないものが悪いというものもいる。

これは震災で置き換えれば、

同じ場所の地震であっても、

ほんの少しの場所の違いによって地盤が違ったり

或いは建物の構造が違ったり、して

或いは、建設会社の力量が違ったりして

壊れるものもあれば、

壊れないものもあるようなものであり、

そのとき壊れたものに、

壊れるのが悪いとは責めないであろう。


そもそも同じ苦しみに見えても

その背景などが違うと、地盤の違いのように

全く違う苦しみであったりするし

建物の構造が違ったりするし、=親からの教育のされ方

建設会社の力量が違ったり=親の育て方や、親からの神経回路や考え方など、が違ったりするし

そうなると自己責任とは言えないところが、

むしろ沢山にあるのであり、

全く的を得ない指摘である。



震災を支援するということは、

もっといえば、苦しんでいる人を支援する、

という志によって生まれているはずである。

とすれば、

苦しんでいる人というのは、

もっと広大に存在している。

その素晴らしい心を、

なぜもっと広めて考えられないのか。

一つにはその人が、

それほどの苦しみにあったことがなく、

或いは周りにあまりはっきりなく、

そうしたことに想像が及ばなかったのだろう

という可能性があろう。

しかしやはり普通に社会に生きていれば

そのようなことは考えるのではないかと思うから

やはり思慮の浅さというものを感じてならない。

これは単に批難しているのではない、

これを読んで速やかに気付く人は

素晴らしい人である。

私にも思慮の浅い分野もあろうと思う。

人は、みな長短があるものだ、

気付けば直せばいいし、

本当に直せないものは直せなくていい。

或いは直さなくて良いものは直さなくていい。


人は行動するときに、

なるべく大局を想定して動くべきである。

そうではなく、考えずに行動すべきときもある。

しかしそれもまた普段から大局を見ているから言えることである。

なぜ大局を見なくてはならないかといえば、

大局を見ない=近いところしか見ない

という思考は、必ずあちこちで真実を歪める。

そして大局から見れば問題ある行動を重ねることになる。

そうすると世は乱れていく。

あたかも元気な子供たちがそのままに散乱して、

みんなで学級崩壊するが如しである。

スポーツでも、もし大局を見ずに、その場だけを見てよく見える行動を全員がしていたら、チームとしては弱小となるが如し。


大局を見よ、人々よ。

大局を見て、己の人生を豊かにし、

大局を見て、社会を真に豊かにせよ。世を乱さず。

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