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日本語「写真」、真意「Photo Graph」

日本では1950年代に土門拳氏が 「絶対非演出の絶対スナップ」
というスローガンを掲げ、
その後、「写真」という訳語のように「真実を写す」
ことを強く意識したリアリズム写真が重要視視され、
加工した写真を批判する動きが高まっていった。

それ以前に、世界的「写真」の語源は、 Photo
Graph、 「光の粒子の絵」 という意味で、写真とは光
で絵を描くことが原点にあった。
この感覚で、 1950年以前からフォトモンタージュやフ
オトコラージュなどの様々な技法が銀塩写真の時代に暗
室作業の中で生まれていた。
しかし、上記の日本語の造語である「写す真実」=「写真」と言う方が
日本としてはしっくりきてしまっていた。

つまり、
「超現実」 にある光を、正確に表すことも
「そうであってほしい、理想」の光を 描いて表すことも
本来「Photo Graph」であるのに「写真」 でなくなっていたのである。

だから、フィルムまたは、センサーを用いて
0から絵を描く技術、
そういう写真もありなのです。


最近の日本写真の流れの主流を見るのは簡単になり
インスタグラムを見ればすぐに流れを掴むことができます。
「真実の景色」とはかけ離れた色味や、光
魔法のような形状変形、物体消去。
1枚の絵を描くことは、何もデジタル処理によって「簡単に」なっただけで「Photo Graph」であることに違いはないのです。

ここまで理解して、でも。

僕はそれを「表現して伝えたい」とは思わないのです。

それは、当たり前に、 人が笑い、泣き生きる
姿そのものや、今目の前に流れる真実の景色が、
何より綺麗だと思うから
感情を持てず。 動けなかった時期があるからこそ、
生きているものや、動く物全てを、 綺麗だと思えるようにな
ったから


よくよく見れば、きっと、中村正義の写真は「真実を写す」の範疇を超えていないのです。
少しの描きは、その綺麗な真実を、時を、見た感情そのままに 「表したい」とき。

真実の世界にある、「想い」がある。だから、 「写真」を使って、表している。
おそらく、普通な写真「enkel」を撮りたい理由はここにあるのです。


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