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32歳、人生感想文 主観と客観の狭間で

32歳になる。年齢は数字であり、人間が作り出した意味付け作業の一環でしかない。私は今この瞬間もいずれ訪ずれる死に近づいてる。ペースを変えずに死に近づいているのだから特段年齢は気にしていないし、いつも生き急いでいる。ただ、4年前からマイルストーンとして誕生日に感想文を書いているため、今年はnoteに綴ることにする。
ちなみに29歳はこれ。

I became 29 years old. When I was an undergrad student, Only I decided to go to grad school in a foreign country. I had...

Posted by Yuto Yasuda on Saturday, November 14, 2020

ちなみに30歳はこれ。

I turned 30. Thank you for your messages (I still need to show my ID when I buy beer. Let’s see when I don’t have to....

Posted by Yuto Yasuda on Sunday, November 14, 2021

ちなみに31歳はこれ。

朝井リョウ原作の「桐島部活やめるってよ」という映画がある。この映画では、高校が舞台で、映画で一度も出てこない桐島という人物に親友、彼女、部活仲間などが翻弄される映画である。一方で、桐島に関わっていない映画部の部長と野球部の部長は、映画と野球に没頭している姿が、桐島に翻弄される生徒と対比されて描かれている。この映画では、”誰か”の人生を生きている人と”自分”の人生を生きている人が対比されているといってもいいかもしれない。誰かを気にして生きている人と自分がどうしたいかを考えて生きている人の対比と言い換えることもできるだろう。朝井リョウはこうったメッセージを含んだストーリーを描くのが得意だ。「何者」も、この類の主題を含んでいるように感じる。

現在、絶賛就活中。
知り合いに会うたびに「今就活中なんだよね」なんて会話をする。
時間が経つたびに、「〇〇回アプリケーションを出して、△△回書類審査を通ったよ」の会話の分母ばかりが増えていって、分子の数は全く増えない。今となっては分母の数は250を超えている。それでも、感情を無にしてアプリケーションを出し続ける。そんな中でふと気が緩むと思うことがある。

「こんな苦しい、貧乏な思いをして仕事すら取れなくて、博士課程に進んだことは間違いだったのかもしれない」

飲み終わりのペットボトルや空き缶を集めて換金する日々
月末にクレジットカードの上限と闘う日々
2週間分の自炊をして、冷凍庫に冷凍してちびちび食べていく日々
お金がなくて食べるものも少なくなるから胃も小さくなり小食になる日々
もちろんこんな生活をしているから結婚?こども?それっておいしいの?

4年目に大学から120万の奨学金が当たってからはそのお金をちびちび使うようになって、このようなどん底の生活を抜け出せたが、それまでは本当に苦しい生活をしていた。

正直、大卒アラサー人間が送る生活とは相当かけ離れていると思う。最低でも私の知り合いの生活とは完全にかけ離れている。

そこで立ち止まって考える。
「やりたいことをするためだけに、他のことは犠牲にして、苦しい思いをして、貧乏な思いをして、おおいうちをかけるように仕事が取れなかったら、そのプロセス、これまでやってきたことはすべて後悔すべきものなのか、すべて意味のないものなのだろうか。俺は敗者なのか。」
そんな問いを立てたくなる。

4年間を思い返す。
文化心理学の授業を春学期と秋学期に開講
自分のアイデンティティを保ちながら自分なりにどう学生を楽しませるか

論文は7本投稿、2本提出済み、もう2本を執筆中
ANOVA, MANOVA, ANCOVA, mediation analysis, moderation analysis, regression, SEM, CFA
北米で鍛えられた抜け目の無い論理的思考
データの正しい分析思考
ふさわしい統計法
読者を楽しませる論文の書き方、言葉選び

9回の学会発表
聞き手を惹きつける話の組み立て方
聞き手を惹きつけるパワポの作り方
質問に答える瞬発力

サッカー指導/メンタルサポート
文化差を考慮しながら選手と向き合う
自分のサッカー指導者としての強みと弱みは何か
自分のスポーツ心理学の知識を現場にどう使うか

その他
外国人としての立ち位置は何か
外国人としてどう仕事を取るか
外国人としてどう生きていくか
自分のアイデンティティは何か

多くの犠牲の上にたつ「やりたいこと」を追求して得られた、これらのことは「仕事が取れなかった」という事実で全く意味のないものになってしまうのだろうか。
それは違う。いや、違うと思いたいのかもしれない。

そういった思考実験の中で分かることは主観的人生と客観的人生は違うということだ。客観としての人生、第三者としての人生であれば、結果がプロセスを正当化するという判断が下せると思う。例えばサッカーワールドカップ、それまでの準備が正しいものだったのか間違っていたのかは、蓋を開けてみて、試合をしてみればわかる。試合をして、例えば優勝したのであれば、それまでの準備は正しかったのだろうし、予選を突破できなければ、それまでの準備はどこか間違っていたのだろう(例えばの話なので、ワールドカップ優勝が成功で、予選突破失敗が失敗とは限らないじゃないか。というよくわからないツッコミはよしてください)。このように第三者の視点で、日本代表の準備が良かったか悪かったかは結果を見ればわかる。そして何の責任も持たず、「サッカー選手よ、4年後まで頑張ってくれ」と思いながら、また4年後を楽しみに待っていればいい。そうやって他人の人生は、結果を元にプロセスの可否を決めることができるだろう。

しかしながら、こと”俺”の人生はそうもいかない。

「4年間、博士課程、頑張りました。論文も学会発表も授業もサッカー指導もメンタルサポートも自分ができる最大限の努力をしました。だけれど最終的に仕事は取れませんでした。だからこれまでの4年間は失敗でした。では、誰か、次の4年間、僕の人生を生きて、頑張ってくださいね。期待してますよ。」

とはいかないのだ。もちろん次の4年もその次の4年も、死ぬまで自分の人生を生きるのは自分だからだ。自分の人生は自分で作っていかなければならない。

不倫をした人間も
クスリをやった人間も
炎上した人間も
ワールドカップでグループリーグを突破できなかった人間も
その手前のワールドカップに選ばれなかった人間も
その手前のプロサッカー選手になれなかった人間も

自分の人生から決して逃れられない。

”俺のこれまでの人生はダメでした。これからは君が僕の人生を生きてくれ。”

とはどうしたってならない。そういった意味でこれからの人生を生きるためにもこれまでの4年を意味のないものだったと結論づけることほど、無意味でバカげたことはない。「自分の人生を諦めることを諦める」とも言えるかもしれない。幸か不幸か、自分の人生は死ぬまで続く。結果にあまり左右されず、自分の価値観を確立し、自分の世界観を構築し、それに従って過去を意味付けし、現在を見定め、未来を作っていくしかないのだ。

今は確実に言える。”誰か”の人生においては結果はプロセスを正当化するが”俺”の人生において、結果は必ずしもプロセスを正当化しない。

ネガティブな感情であれ、ポジティブな感情であれ、感情の絶対値が人の人生を創造するのだと考えている。だから、この4年間で経験したことも、20代の大半を過ごしたカナダで経験したことも、人知れず流した涙も、人前で流した涙も、”あの日あの時あの場所の”では形容しがたい数えきれないほど訪れた寝れない夜も、むしろ身体がこの世界を生きることを拒否した日々も、余すことなくEmbraceして、これからの人生を生きていく所存である。

話を変える。かつて、留学をどんどん進めるような風潮に対して、仮に自分に子どもができたときに、もしくは留学をしたい学生に対して、留学、特に正規留学を進めるだろうか思ったことがある。その時の答えはNoだった。なぜなら自分の留学経験がつらすぎたからだ。そもそも自分の留学経験が特段大変だった(去年の人生感想文、参照)ということもあるが、語学留学、交換留学、正規留学、就職の順で、”お客様”から”現地の人との闘い”に変わる。語学留学や交換留学であれば、大学や語学学校はお金が入れば満足であり、大学側はどんどん学生を受け入れる。学生の側において、そこでの目標は少し海外生活ができて、英語ができるようになればOK。しかし、正規留学や就職は正直そんなに甘くない。言わずもがなではあるが、正規留学では英語ができるのは当たり前。
その中で私の研究分野においては
「お前、いい研究者なん?」
「斬新なアイディア創造できる?」
「統計の知識持ってる?」
「ちゃんと論文書けるん?」
「そもそも論文数何本?」
が問われる。
就職においては、もちろん英語ネイティブと闘う必要がある。
そこで重要になるのは
「なぜお前を取らなきゃいけんの?」
「ネイティブより優れてる点はどこ?」
「就労ビザを君に発給する価値はどこにある?」
に答える必要があることだ。

実際、現地の人と海外の学者が同じレベルの場合、現地の人を採用するという条件の仕事募集もあるし、そもそもビザの発給が面倒くさいからだろうが、現地の人しか取らない仕事もある。

そういった中で日本人であることを武器に闘うならまだしも、そうでない場合、自分しか持ちえないスペシャリティが求められる。そういった中で、天才の側ではない人間は、しこたま努力しなくてはならない。自分に眼をむけると、客観的に努力しているかという問いには答えられないが、自分の主観の中では、自分の最大限の中で、自分の最大出力で努力してきたと自信を持って言える。しかしながらそうやって自分最大出力で努力をしても仕事が取れない現実。そりゃ、手放しに「留学っていいもんやで」なんて言えない。

そうは言いながら、こうやってつらつらと文章を書きながら、「では、留学はお勧めできないのか」という疑問が残る。そこでのは私の回答はこうだ。留学で得たものは、「自分を自分たらしめた」ということである。私はカナダ人ではなく、もはや日本人でもない。知り合いは「日本語が喋れる外国人」と私を形容する。誰とも共通の経験をしていないからこそ、どれにもカテゴライズされ、どれにもカテゴライズされない中で、誰でもない自分だからこそ得られた経験をすることで自分という人間、安田悠杜という人間を確立できたと思う。それがややもすれば、アイデンティティクライシスを経験することにもつながるのであるが、それを克服できると、他人とは取り替えの効かない自分が確立できると思う。そうすると”普通”なんてどうでもよくなるし、人と同じであることに価値を見出さなくなる。よって「誰でもない自分を確立したいのであれば、留学、特に正規留学はお勧めできる可能性がある」というのが私のこれまでの結論である。そしてこの話は、”誰か”の人生においては結果はプロセスを正当化するが”俺”の人生において、結果は必ずしもプロセスを正当化しない。という話に繋がる。

今のところ、年末まで就活をし、仕事が決まらない場合、その後は日本に帰り、数カ月休むつもりだ。私の同僚はデータサイエンティストや政府機関等、ピボットして仕事を得ているが、幸か不幸か

「安田の人生」ー(「研究」+「サッカー」)

の答えが睡眠と食事以外残らないような人生を過ごしてきてしまったため、自分のアイデンティティが研究者とサッカー指導しかない。不幸にもそんなアイデンティティが人生のピボットを拒む。今年中に仕事が取れなければ、博士課程で論文7本を投稿し、2本が査読中のDr. Yasudaというタイトルを引っ提げてのハイスペックニートだ。それもいい。”休み”ながら、色々な人の話を聞きながら、もしくは聞き流しながら、一人の時間を楽しみながら、過去にとらわれずに、過去を内省しながら、今後、自分の人生をどう創造していくかを考える。これまでも、これからも”桐島”や"他人"や”客観的人生”なんて気にせずに、”映画”や”野球”や”俺”や”主観的人生”に没頭し、人生を死ぬまで歩んでいきたい。

よろしければサポートをしていただけると嬉しいです。博士課程の学生らしく、貧乏な暮らしをしております。