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31歳 人生感想文 矜持

毎年Facebookで誕生日に人生感想文を書いているのだが、100年に一度しかFacebookを開かなくなったので、今年はnoteに感想文を書こうと思う。

31歳になる。年齢は数字であり、人間が作り出した意味付け作業の一環でしかない。私は今この瞬間もいずれ訪ずれる死に近づいてる。ペースを変えずに死に近づいているのだから特段年齢は気にしていないし、いつも生き急いでいる。ただ、3年前からマイルストーンとして誕生日に感想文を書いているため、今年はnoteに綴ることにする。今回、長め。
ちなみに29歳はこれ。

I became 29 years old. When I was an undergrad student, Only I decided to go to grad school in a foreign country. I had...

Posted by Yuto Yasuda on Saturday, November 14, 2020

ちなみに30歳はこれ。

I turned 30. Thank you for your messages (I still need to show my ID when I buy beer. Let’s see when I don’t have to....

Posted by Yuto Yasuda on Sunday, November 14, 2021


少し中学校から今までの経験を書こう。

高校受験では、一日中塾に篭った。おそらく、あの塾で1位2位を争うぐらい勉強した。めちゃくちゃ努力しているにも関わらず、成績は上がらなかった。そんな私の横で、開成や渋谷幕張や筑駒を受験せんとする同級生がいることに、子どもながら、努力では埋められない差があり、私は天才の側ではないことを理解した。結局、点数開示をした時には、あと2点落としていたら高校に落ちていた。

高校では、サッカーのスタメンになれなかった。なぜスタメンになれなかったかはわかっていた。だから誰よりも努力した。誰よりも自主練をした。それでもスタメンになれなかった。そこで人生ほぼほぼゲームなんだなと気づく。つまり「そのゲームは何を評価軸としているか」ということである。今となっては若者にありがちな間違いだと思うが、無意識に、自主練をして頑張っている自分、努力している自分に酔っている自分がいた(客観的なパフォーマンスは上がっていないのに頑張っている自分に酔ってる若者の皆さん、どうか私の失敗から学んでください)。しかし、「スタメンを取るというゲーム」において、監督は全体練習のパフォーマンスを見てスタメンを決める。だから、練習のパフォーマンスで成長した姿、チームに貢献できる姿を見せない限り、スタメンで使おうとはならない。長時間自主練をし、疲弊した中で練習に臨んでいては練習で最大パフォーマンスが出せるわけがない。高校サッカーで学んだことは、「努力の質を突き詰めた結果として努力量が自然と増えていく」ことが理想であるということである。

高校サッカーにどっぷり浸かり、大学受験は一度失敗し、浪人した。浪人生活では、地元の茨城から東京、お茶の水の駿台に通った。高校サッカーの失敗から努力の質を考えるようになった。朝9時の授業に間に合うよう朝7時前の電車に乗り、夜は10時に帰る。通学に1時間半を要したため、行きの電車では英単語を覚え、帰りの電車では歴代天皇の名前を覚える時間にした。なにも教科書を開いていなくても電車に揺られながら頭の中で天皇の名前を反芻していれば勉強になるのだと知った。日本の大学受験は今でも”全日本記憶大戦争”だと思っている。昼飯を食べると眠たくなり午後の勉強に悪影響があることを知り、昼はカロリーメイトだけにした。所詮人間は忘れるのだと分かり、自分が忘れるタイミングを知り、そのタイミングで知識をもう一度活性化できるように復習のスケジュールを細かく決めた。努力の質を考えた結果として努力量が増え、1日に12時間は最低でも勉強していた。ともすれば偏差値が50後半から80を超えるようになり、模試では北海道大学文学部志願者の中でほぼ毎回1位だった。

大学では、特にサークルにも部活にも入ることもなく、中学校と小学校でサッカー指導をした。コネクションがなかったからサッカー協会の講習会に参加し、スタッフの方とお話する中でコネクションを作った。その年の夏には指導者ライセンスを取った。また、複数の教授が異口同音に心理学は北米の方が進んでいるとおっしゃっていたから、北米の大学に交換留学することにした。交換留学するまで、大学の勉強、サッカー指導、英語の勉強に対して24時間をどう割り当てるべきかを考えた。結果としてサッカー指導はリーグ戦無敗優勝、英語のテストは交換留学ができるだけのスコアを獲得、大学の成績は海外の大学院に行くための成績を残した。それと引き換えに、大学の友達は少なく、”普通の大学生生活”は送っていない。

そんなわけで大学3年から4年にかけて現在所属する大学に10ヶ月交換留学をした。当時TOEFLのスコアは81しかなく(4年前に受けたTOEFLは100)、英語が全く聞き取れなかった。だから、毎週予習で100ページから200ページを読み込み、それでも教授が何をいっているかわからなかったから、教授に許可を取り、授業を録音し、何度も再生した。予習、授業、復習で一日が潰れる毎日を過ごした。そのような経験で自分は海外の大学院の方があっていると確信し、海外の大学院進学を目指した。とはいえ、大学で海外の大学院に進学する人間なんて私の周りにはおらず、「マジョリティの人間とは違う選択をしている自分は間違っているのではないか?」という今となっては謎の不安に襲われ、食事が喉を通らず毎月のように内科に通った。同じ境遇にいる人間が周りにいなかったから、そういった不安は誰とも共有することができなかった。だから、中島みゆきの「ファイト!」をヘビロテして、私の中で「俺は世界で闘うんだ。だから他人とは違うんだ。それでいいんだ。闘わない奴には、闘っている奴のことはわからないんだ。」と言い聞かせて、どうにか強がりで乗り切った。

このあたりから、数カ月に一回、数日間体が動かなくなるという自律神経失調症的な症状が出始めた。自分のキャパシティー以上にストレスを感じていたためだと思っているが、症状が突発的に起こっていたため、特に病院には行かず、栄養士の友達に話を聞いて食べるものを気を付けたり、理学療法士の友達に話を聞いて工夫してストレッチをするようにして、解消できるよう努めた。その甲斐あってか、3,4年前ほど前からこの症状を軽減することができている。

結局、修士課程ではイギリスの大学に進学した。旧正月に知らないイギリス人2人に"Fu**** Chinese!!"と叫ばれたことを例とした人種差別に辟易し、6ヶ月で大学を中退した。ストレスからか眉毛が抜け、見る影も無くなった。途方に暮れることもなく、イギリスから帰国する前後にカナダの大学院を再受験した。入学1ヶ月前に急にカナダの大学から連絡が来て、カナダの大学院に進学することになる。カナダに行く直前になって人種差別の経験からか身体が海外渡航を拒否し、空港に行く車中では嗚咽がひどく起き上がることすらできず、飛行機内でも嗚咽は止まらず、食事は喉を通らず、そんな症状は空港についた後も数ヶ月間続いた。白人の知り合いと話しているだけで汗が止まらないこともあった。そういった症状はカナダで時間を過ごすと共になくなっていった。

博士課程では、応用心理学から基礎心理学の分野に飛び込み、自分の思考の甘さに絶望し、本当の研究者を目の当たりにした。もうどんなに努力してもあそこには届かないと思った。自分の限界を知り、0から1を生み出す研究者に畏敬の念を抱くことすらあった。自分の研究者としての非力から、住まわせていただいている大家さんの前で、1時間以上号泣したこともあった。自分の今までの努力が何も通用しなくて涙が止まらなった。私の人生で「涙が溢れ出る」という表現があれほどぴったりくる時はなかった。泣こうと思っていないのに、泣きたくないのに、涙が溢れて頬を伝う。大家さんがいなければ今僕はまだここに立てていないだろう。そんな生活を送りながらなんとか食らいついている。いや、食らいついてすらいないのかもしれない。それでも研究を続けている。

なぜ、こんなにも辛いことを経験しているのに、日本に帰国せずに、大卒初任給にも満たない給料で、しぶとく、なんとか生きているのだろう、と考える。そこにあるのは自分の人生に対する矜持であるように思う。それは言い換えると

「自分の人生に文字通り真摯に向き合っているか」という問いに嘘、偽りなくYESと言いえるか

ということである。真摯に向き合えば向き合うほど、時として”したいのにできない”自分の能力の無さに絶望し、苛立ち、落ち込む。そして周りの人間の有能さに気づく。世界にはすごい人間が山ほどいることに気づく。でも、それでいいのだと思う。なぜなら、それは自分の人生と真摯に向き合った結果だからだ。真摯に向き合い、ネガティブな経験をした、ネガティブなことに気づいた、それでいい。それの何が悪いのだ。高校受験で自分が天才ではないことに気づいた。天才でない人間が日本社会を飛び出し、やりたいことを続けるためにはその絶望や落ち込みは必ず訪れるといっていい。純粋に自分がしたいと思うことに向き合い、行動し、次のステップへと環境を変えない限り、ネガティブな経験や気づきすら得ることができない。天才ではない人間がやりたいことをし続けるには、そういった気づきや経験をせず、井の中の蛙になっている方ががよっぽど問題である。重要なことは、そういった気づきや経験をないことにせずに受けれて、どうすれば次のステップに行けるのかを考えることであるように思う。天才ではない人間が自分の存在価値を見出すためには2つの覚悟が必要だと思っている。

自分の無能さを受け入れ、それでも前に進む覚悟

せっかく社会が敷いてくれたレールを外れたのだからその後に起こるいかなる事象は自分で受け入れるという覚悟

である。そうすればなんとか天才でもない自分がやりたいことで生き残っていけると思う。もっとも重要なことは止まらないこと。時として止まってもいい。ただ止まったとしても、できるだけ早くもう一度歩き始めることだとと思う。

どうやら私は上記のような、「自分の人生と文字通り純粋に向き合っているか」に矜持を持っているらしいということがここ最近の発見である。

ではなぜそのような矜持が大事だと思っているのか。それは、そうやって自分の人生を自分で意味付けして前に進んでいくことが人間の人間たる所以であり、安田が安田である所以であると思っているからだろう。そういう人生の意味付け作業は人間以外の動物にはできないだろう。自分は何に興味があって、どういったことが嫌いで、どう人生を歩みたいか、どういった人生を創造したいのか。そういったことはきっと動物にはできない(動物の研究者の皆さん、もし間違っていたら教えてください。大脳新皮質の大きさからいって多分あってると思いますが)。そしてそういったことを私は意味付けと呼んでいる。そうやって自分で自分の人生を意味付けすることによって「他人」ではなく、「自分」の人生を生きることができる。せっかく人間に生まれたのだから、人間でいたい。そして自分の人生を自分で生きてこれているのだから、いつ私に死が訪れても、「死ぬ最後まで精一杯自分の人生と向き合った。それで死ねるなら本望だろう。」と思うことができると思う。私がそういう人間だからか、全く逆に存在する自分の本能の赴くままに生きている人にも魅力を感じることもここで述べておきたい。

そして最後に、その矜持を自分が保っていられるのは、私の友人の力が大きいことを述べておきたい。間違いなく、幼稚園、小学校、中学校、高校と明らかに友人に恵まれてきた。前述のイギリスの大学院中退からの帰国後、罪悪感から毎日のように風呂場で泣いていた。それでも幼稚園の友人が何を聞くでもなく、自分を外に連れ回してくれた。時として「もう地元に帰って農業でもしようかな」と弱音を吐くことがあった。高校の友人は「それもめちゃくちゃいいね」といってくる。自分が今まで積み上げたものに対し、もったいないと思うことなく、私の弱音を肯定する前提には、人生には優劣は存在しないんだという考えがあるように思う。日本に帰国すればわざわざ有給をとってあってくれる友人がいる。そういう”ちょっと変な人間”を受けいれ、友達だと思ってくれる友人がいるからこそ、前述の私の矜持は保たれているように思う。そういう友人がいたからこそ「私はどうやら他人とは違うが、それは人間としての差ではないのだ」と思うことができているのだと思う。今となっては世界の様々な場所に友達がいる。これは私の人生において財産であり、大きな意味を持つ。だからいつも私の友人には「ありがとう」と思っている。

さて、今年は就活の年である。どこかの大学のポストに拾ってもらう必要がある。これまた非常に厳しい闘いになるであろう。ゲームにどう勝つかを考えなくてはならない。前述に代表されるこれまでの苦しみを意味付けするという意味で、このゲームに勝ちに行きたい。このようなことを言いながら来年の誕生日にはやっぱり農業に従事しているかもしれない。それもそれでいいと思う。それが私が自分の人生と真摯に向き合った結果なのであれば。

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