記事を書く意味は?
しばらく前に「毎日投稿」が途切れたえんじろう。それ以降再び連続投稿は続けているのですが、1度途絶した後となると、なんとなくどこかで「続けることに意味はあるのだろうか?」という疑問を抱かずにはいられなくなります。
今回は今後に備えて、記事投稿について考えてみようかな。
続けた理由
ノートを始めたのが3月頃でした。
最初は自分のことを誰も知らないので、とにかく自分を発信し続けていこうという気持ちでのスタートでした。ノートの乗せ上手な仕組みも相まって、割と自由な心で日々投稿を続けていました。
つまり毎日投稿を続けた理由は、とにかく人目に触れる機会をたくさん作ることに繋がるだろうと信じていたからです。
伸び悩むスキ
間もなく半年となるわけですが、SNSの特徴たる評価(ノートではスキ)の数が伸びないまま今に至っているんです。平均で行くと3くらいでしょうか?
もうひとつ気になるのは閲覧数に対するスキの割合です。これも基準はさっぱり判りませんが、自分の場合は見てくれた人の10%くらいがスキをしてくれているという計算になっています。
因みに通算の閲覧数は6527となっていますが、それが多いんだか少ないんだかもよく判りません。
ただ265記事投稿したことを考えると、1記事平均25回位読んでもらえていることになるので、それはありがたい結果と言えるのかな?
原因を考える
ではどうして、記事があまり伸びてくれないのだろうか?考えられるのは「記事の質」ということになってしまいますね。読みたいと思う記事なのか?読んで「良かった」と思ってもらえる記事なのだろうか?
その辺が問題点ということになるのではないでしょうか?
舵の取り方
そろそろここらで「質よりも量」作戦から「少数精鋭」作戦に切り替えても良いのではないだろうか?そんなことを考えるわけです。
そしてその直後にハッとします。
あれっ?自分に精鋭にできるような記事が書けたんだっけ?そろそろ切替なんて言うのは、記事の質を瞬時に切り替えられるだけの実力がある人が言える言葉じゃないのでしょうか?
そこに気が付いてしまうのです。
そもそも人がスキをしたくなる記事ってなんだよ!人口の数だけ考えはあって、その中でどんな考えの人がノートでちまちまやってる僕の記事にたどり着くというのでしょうか?
あっ、1記事25名ほどたどり着くことは明らかになっているわけですが、その25名がどんな人でどんな記事を求めているのかさえわからないのです。
いやいやそもそも求められたとしても、それに答えられるような記事を瞬時に作るようなスキルが、えんじろうにはないではないか!
結論
今まで通り様々な観点から記事を書き続けること。オカリナ演奏をするとき以外のえんじろうという人間を伝えるというのが目的なら、やはりそれを続ける以外にはなさそうということがはっきりしてくるわけです。
気をつけていること
こう見えて、実は最初から気をつけていることもあります。
それは「妬み意識」を感じるような記事、受け売りだけでの他人の悪口記事、引用なしのAiが書いたそのままの記事、自分の感じた気持ちを含まない事実だけを報告するだけの記事。
こういったものは読んでいて気分悪いですし、タイトルの「明るい思考」にもそぐわない気がするので、書かないように気をつけているんですよ。
気をつけられること
今回の思考を経て、これからちょっと切り替えても良いかなと言うものも見つかりました。
それは記事の長さは一定以上必要ではないかとか、最後には結論があるべきではないかとか。そういったルールめいたものを当てはめないように気をつけること。いつもこうだからというのに囚われすぎずに、型にはめすぎない記事を色々作るというのが必要かなと感じています。
まあそこにたどり着けただけでも上出来かな?気楽に手短に「今の気持ち」を伝えるような記事も、今後は出てくると思います。
今後ともどうぞ宜しくお願いします。
おまけ
ところでこのノートって、実は「ログインしてない人もスキできる」のですよ。本当ですよ!
だから本当に気軽に、スキ付けて応援していただけると嬉しいです。
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