期待することの罠
ずっと前からこの格言は僕の中にあったのですが、とっさの時に忘れてしまうんです。格言をというよりも実践することをです。つい先日そんな体験をしてしまったので、改めて記しておこうと思います。
というわけで、今回はえんじろうの大切にしている格言の1つをご紹介しましょう。
他人の行動に期待するな
これにつきます。悲観的な言い回しに聞こえるかも知れませんが、己の依存に対する戒めでもあり、同時に無駄に鋭い心をすり減らさないための鉄則です。
実は「他人に期待」することは悪いとは思っていません。でもそれは「他人の性格」への期待であり、その結果生じるであろう「行動に期待」するのは大きな勘違いにつながる。更にそこから「恨み言」に発展する可能性もある。そう感じることが多いのです。
友達と扉の例
友達が両手で荷物を運んでいて、扉の前で開けようと頑張っている。あなたはどうしますか?
道徳的な答えは2や3と思いますが、それすら友達のプライドを傷つける可能性がないとは言えません。だからどれも不正解だしどれも正解。
でもついついあなたは「普通こうするでしょ」という感覚でどれかを選ぶことでしょう。
あなたが選んだ行動の結果ならば、どんな結果であっても納得できるものです。そう「何だ失敗だったか?」で済むからです。
ところがこの状況、友達の側だったらどうでしょうか?
立場の反転
あなたが両手いっぱいの荷物で扉の前に立っていて、手ぶらの友だちがいる。
あなたは自分の経験や感覚で上記の選択肢を導き出し、何も言わずとも友達がその中から何かを選ぶだろうと予測。この時点で「5.いきなり帰る」とか「6.扉の前に立ち妨害する」なんて選択肢が増える可能性だってないわけじゃないのに、そこは友達の「性格」を信じて選択肢のどれかであることを予測する。
更に自分ならこうするという感覚から、3の選択肢で「行動」してくれることを期待する。
期待と要求
他人の選択肢を1つに絞ってその行動に期待をするというのは、もはや「要求」ではないでしょうか?相手をいのままに動かしたいという「コントロール欲求」だと言えます。
要求が満たされないと、逆らわれたかのように感じてしまったり、それでなくともひどく落ち込んだり、下手したら相手を恨むということに繋がりかねません。
何度も繰り返す
実はえんじろうは、ずっとこの教訓と共に歩む宿命なのだろうと感じています。考えても見れば、えんじろうが機械が好きなのも、コントロール欲求が強いからではないかと思うことがしばしばあります。
いえもう最近では自分はコントロール欲求の塊だと思っています。ですからそれを沈めながらなだめながら生きるのは、すごく辛いし痛いのです。だったらその欲求が発動しないように、火種たる「他人の行動への期待」を持たないようにするしかないと至ったわけです。
魂の修行
もしもこの世が魂の修行場だというのなら、えんじろうが誰の行動にも期待せずにい続けられるようになった時、就業となって死滅(いやいや成仏?)するのかも知れませんね(そんな姿が想像できんわい!)
だから自分に何度も言い聞かせるのです。他人の性格に期待することまでは良いとしよう。期待した自分が「何だ間違っていたか」で済むだけだから。でも相手の性格ならこうするだろうという思い上がった「行動への期待」はしてはいけない。そうならない場合に怒りが生まれてしまうから。
そしてそれは、相手はもちろんのこと自分の心も痛めることになるから。
相手も自分も火傷させるような、熱く燃える感情。こういうものを「煩悩」というのでしょうかね?
燃え上がった炎を無理やり抑えることは、できるにはできますがとても疲れるし、その後心が回復するのに時間が必要になります。だからそうじゃなくてそもそも燃え上がる火種を掴まないようにしたいなというのが、壮大かも知れないけれどえんじろうの生涯の目標です。
まとめ
同じように感じた方の共感を刺激できたら、それだけで本望です。あっこれは共感を期待する意図ではないですからね。そういう人もいたらラッキーくらいで。
いたるところに罠があって、やっぱり難しいなあ(笑)
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