知らない人の不幸は悲しくない?
人間は誰でも自分の家族や友達・知人など、知っている人(有縁の人)には優しくできますが、自分と無関係で知らない人(無縁の人)にはやさしくできません。
例えば、学校の先生、担任クラスの児童・生徒のことはしっかりと面倒見ますが、他のクラスの子どもは見て見ぬふり。会社の上司も、自分の部署の部下が困っていたら助けようとしますが、他の部署の人が困っていても助けません。
縁が有る人(有縁)しか助けない理由は、「この子の担任の先生がいるのに、自分がでしゃばるのは悪いから」「他の部署の上司がいるのに、自分が助けるのは筋が違うから」など、助けない理由が困っている人ではなく、あくまで自分がどう思われるか、つまり自分を守るということが、最優先になっているからです。
禅僧の夢窓疎石は、『夢中問答』で「大切なのは有縁の慈悲でなく、無縁の慈悲こそが大事である」と言っています。
今回はそんなエピソードを紹介します。
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ある日のことモッガラーナは、亡くなった母親が餓鬼(がき)の世界へ堕(お)ちて、空腹に苦しんでいるのを知りました。さっそく神通力を使って食べ物を送るのですがすぐに火がついて燃えてしまいます。火を消そうと水を降らせても油に変わって、火は益々大きくなり、ついには炎に包まれた母親は悲鳴を上げました。
お釈迦さまは、なげき悲しむモッガラーナに言いました。
「お前の母親は、死ぬまで一度も他人に物を分け与えたり、良いことを教えることが無かった報いを、今、受けている。因果の法則は神通力でも曲げることはできないのだ」
彼は、自分も他に苦しんでいる人には目もくれず、母親だけを救おうとしていたことに気がつきました。
「モッガラーナよ。間もなく修行を終えた聖僧(せいそう)たちが森からやってくる。彼らに食べ物や飲み物を供養するのだ。その功徳(くどく)がきっと母親へも向かうであろう」
モッガラーナは涙を流して、お釈迦さまにお礼を述べ、教え通りたくさんの供養を用意し、修行僧たちに捧げました。
そして恐る恐る母親の行方を念じると、そこには昔の面影どおり、優しい微笑みを浮かべた母の姿がありました。
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人間誰でも「自分だけ良ければそれでよい」「縁が有る人だけが良くなればそれでよい」と考えるのは当然です。ニュースで報道される悲しいニュースを見ても所詮は他人事です。知らない人の不幸は悲しくないのは、当たり前なことかもしれません。それでも、少しでも無縁の人に対しても供養の心があれば、無縁の人の苦しみも和らぐように思わせてくれたエピソードです。
縁とは見つけるもの、自分から歩み寄るものなのかもしれませんね。
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