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私から書くことを取り除いたら、たぶん何も残らない〜「書く習慣 自分と人生が変わるいちばん大切な文章力」を読んで〜

いしかわゆき著 「書く習慣 自分と人生が変わるいちばん大切な文章力」を読んだ感想を書いていく。

私がnoteを再開しようと思ったきっかけとなった著書で、久しぶりに心を揺り動かされ、書きたい衝動に駆られた。

SEOとかペルソナ設定とか、顔も知らない架空の誰かを想定することが徹底的に向かない私に、他の誰でもない、過去あるいは未来の自分へ向けて書けばいいんだよと背中を押してくれた、すごい1冊だった。


私にとって、「書く」とは何か?

前の記事でも、「書く」について読書感想文を書いた。

いしかわ氏の著作ではもっと根本的な、私にとって「書く」という行為は何なのか。

どうして私は書くことが好きなのか、なぜやめられないのかを思い出させてくれた。

その結果、私の中で出た答え。

私にとって、「書く」とは生きていく上で必要不可欠な、自己表現のかたまり。

呼吸をするのに何も疑問を感じないように、当たり前に「書く」行為が私にはそなわっている。

私から書くことを取り除いたら、たぶん何も残らない。

誰に向けて書くのか?

2年程前、副業のひとつでやってみたライター業。

せっかくだからwebライターの勉強がしてみたくなり、ちょっとかじってみた。

速攻SEOでつまずいた。

ターゲットをしぼるとか、ペルソナの設定とか。

顔も名前も知らない架空の他人を想定して書くというのが、どうしてもできない。

できないというより、嫌だ。嫌悪感が強い。

「誰か」って誰?!

さらに追い討ちをかけてくるベネフィット。

なんでカタカナ表記なんですが。日本語で説明してください。

誰に、どういった利益があるのかをわかりやすく文章にしていく・・・と私は捉えたのだが、知らない誰かに向けて有益な情報を書くなんて、それこそ雲を掴むような、想像しても全く実像が見えない、ただイライラするだけだ。

いしかわ氏は、

誰でもなく、「自分のため」に書いていい

と言っていた。

また、

過去の自分に向けて書くと、「未来の誰か」が救われる

あなたの体験で、誰かの未来は救えるかも

と、ぼんやりと実像も持たない対象者に向けてではなく、私に向けて書いてもいいんだと嬉しくなった。

それなら、いくらでも書けるから。

だって楽しいんだもん。

私の書く文章、その価値を決めるのはだれ?

私自身のため、過去の自分に向けて書いてもいいと思えたが、ここでまた不安が出てくる。

この文章はおもしろいだろうか、読む価値があるものだろうか、とかそういった不安がよぎる。

いしかわ氏はこういったモヤモヤした不安に対しても、次のように書かれていた。

この時、「有益」かどうかは自分で判断することではなく、受け取り手が決めることなのだと実感しました。

どんな文章でも、自分の知らないところで「有益」だと感じてもらえたりする可能性を秘めているということ

私が楽しく書いているこのnoteや文章に価値があるかどうかは、書いた私ではなくて、読んだ人が決めることだ。

おもしろかったと思ってくれるかは、読んだ人がそれぞれに思うことなのだから、面白おかしく書かなきゃとか、変に狙った文章を書くのではなく、私はただ思いの丈をがしがし書いていけばいい。

いいねとか、スキとか、反応がないからといって、誰も読んでいないというわけでもない。

反応がなくても、みんなひっそり「読んでいる」

これは私もびっくりしたことだけど、1年以上放置していたのにも関わらず、私の記事がどれくらい読まれているかを調べたらけっこう読まれていた。

たくさんあるnoteの中から私の書いた文章を見つけ、読んでくれた人には心からありがとうと伝えたい。

書かなきゃもったいない

「書くのが好きだけど、これといってネタがないから書けない。」

私もよく思っていたことだけど、これって実はもったいない。

あなたの「日常」は、他人には「非日常」かも

書けば誰かの目に留まってなにかがはじまるかもしれない。でも書かなければ、すべてはあなたのみぞ知ること。伝えたいことがあるのなら、筆をとる。たとえうまくなくてもヘタクソでも、世に公開する。それだけで、世界は大きく変わらなくても、あなたの人生はちょっとだけ変わるかもしれません。

私の書いた読書感想文だったり、何かやってみた感想だったり発見だったり、ワクワクした気持ちを文章でかたちにして発信すること。

私の日常が、読み手にとっては日常ではなくて、なにか心に残るものになるかもしれない。

自分のために書いたものが、もしかしたら誰かのためにもなるかもしれない。

感想や発見、気づきなんかを自分の心に留めておくのはもったいないじゃないか。

人間はすぐに忘れる生き物だから、何にどういう時に感動したのか、何を思ったのか、書いて残しておいた方が良い。

書くことで、ちょっとだけかもしれないが、私の人生のいろどりになる気がする。

「書く」原動力

私は子どもの頃から作文を書くのは好きだった。

幸いにも、学生の頃は作文を褒められる機会が多かった。

作文は学生の頃の私にとって、自己表現できる貴重な場だったと思う。

大人になってからは、学んだことや思ったことをまとめて書いた文章や、コミックエッセイ的なイラストを褒めてもらえることがちょこちょこあった。

作文もイラストも、好きな事柄、楽しかった感想などを扱うから、苦なくできる。

興味のないテーマに沿って文章を書かなきゃならないものほど、嫌なものはない。

個人の趣味で書くのだから、自分の好きをとことん追求して、わきあがる感情を文章やイラストにして残す。

「好き」

これ以上に私を奮い立たせる原動力はないと思う。

むすびに

いしかわゆき著 「書く習慣 自分と人生が変わるいちばん大切な文章力」の読書感想文を書いてみた。

“文章を書く”ということを、いちいち難しく考えなくていい。

自分の心が動いたら、そのままの言葉にして書いたっていい。

自分が楽しんでワクワクしながら書いたものがどこかの誰かの目に留まって、その人の心にも何かを残せるかもしれない。

語彙力に悩んでいるのなら、読書をどんどんして言葉の言い回しだったり、気になった単語などをメモして貯めていく。

忙しいと言い訳しないで、いま一度自分の生活を振り返ってみる。時間は意外に作れるものだから。

スマホを手にSNSを開くかわりに、電子書籍用のタブレットを手にとって読書する。

すぐメモできるようにノートとペンも置いておく。

だらだら時間を浪費しがちだった日々の暮らしに、書くことが刺激になって楽しくなってきた。

書くことの楽しさと必要性を、やさしく問いかけてくれる本だった。

noteを再開しよう、なんちゃってエッセイをまた書こうと思い立たせてくれたいしかわさん、本当にありがとう。

私、書くのが好きです。

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