神戸
わたしの生まれた場所、そして育った土地神戸。
世界中で神戸という場所がいちばん好きだ。
わたしが産まれたのは震災の1ヶ月後。
昔から不思議な夢をよく見ていた。同じ夢を高校生くらいまで何度も見ていた。
2階建てのアパートのベランダで母親に抱かれているわたし目線。見えるのは街中で火を吹いているゴジラと母親の優しそうな険しそうな表情。
ある日突然母親にその話をするとアパートの特徴を聞かれたので答えると、不思議そうなでもどこか納得したような顔をしながら「震災まで住んでた家だね。ゴジラは分からんけど」と言ってきた。変な話しだが本当だ。その日から一回もあの夢を見ることは無くなった。
わたしの学年は阪神大震災のときに産まれた子供たちとして育てられた。当日に産まれていた同級生もいた。節目には新聞記者やカメラマンが学校や道端に構え、震災の子供が●●歳に。などと報道された。
しあわせはこべるようにという歌は今でもアカペラで歌えるだろう。道徳の授業以外でも特に震災について知る機会がとても多かった学年だとおもう。
先日母子手帳をひさしぶりにみた母親からこんな写真が送られてきた。
"1/17阪神大震災の後●●病院はじめてのうぶ声でした。たくましく育って下さい。"
今まで知らなかった。震源地も近いそれなりに大きな病院だ。
加えて、昔いた会社のパートのおばちゃんが"わたしの友人があなたを取り上げた看護師かもしれない。よく覚えてるわその時の話。"と言ってきたことがある。世間は狭く、また震災の時に子供が現地で産まれるということがどれだけ大変だったかを教えられた。
もしかするとこの母子手帳の備考欄はそのご友人が書いてくれたのかもしれない。違う人かもしれないが、わたしは写真越しにでもこの文字列からなにか特別な思いを感じる。心からそう願ってくれていたのであろう思いを感じてしまう。
先日別の記事で書いたように、わたしがいま健康体で生きているのはほんとうに奇跡だ。
周りの期待以上にたくましい女に育ってしまったが、たくさんの人の願いあってのことなのかもしれない。何度も何度も強い運に助けられ、守られていたから今がある。
震災の時に生まれた神戸のサッカーチーム、ヴィッセル神戸のチャント 神戸讃歌 の歌詞が神戸の強さを物語っていると思う。
この歌をヴィッセルのホームで聞いたら心の底から勇気やいろんな感情が出てきて涙目になってしまうことがある。
写真や映像、たくさんの人から聞いた街の状態からわたしが知っている美しい街に変えた力強さは底知れない。
ずっと震災のことを聞いて育ってきた。神戸の友人たちだけが震度3であっても咄嗟に身構えピリッとする。関西の他府県の人たちとは受けてきた教育が全く違うのだ。伝え続けなければいけないという使命を持って皆動いてきたということに気づいたのは大人になってからだった。
東京に住んでいた数年間、東日本の数年後だというのに地震があっても街は通常営業だった。歩いている人も止まりやしないし、友人や仕事先の人々も気にもしない。関西に比べて揺れる頻度が体感上とても多かったというのにだ。多くの人間があの危機感の無さでは助かるものも助からないと感じた。関西に帰ろうと思った理由のひとつでもある。
先日の震災で祖母がひとりで暮らしていた街に避難指示が出た。そんなに揺れていたわけではないが、祖母はもう80歳を超えているしひとりで動けるはずがない。元々数日後に行く予定にしていたが、わたしはひとり車に乗りすぐに祖母の家に向かった。親戚みんなに連絡して、なにかあれば体だけ担いで外に出るからと伝えた。
安心した祖母を寝かせ、わたしはとりあえず夜が明けるまでいつでも逃げ出せるように祖母の隣の部屋で電球の下と窓際避け、NHKをつけながら朝を待った。
予定を全部変えて3日間は祖母と共にその家で過ごした。夜は同じ行動を取った。親戚のみんなからのお礼と状況確認の連絡は止むことはなかった。
そしてわたしがそこに行くことを知っていた友人たちのなかで兵庫県の人だけが安否確認の電話を逐一くれた。これには結構驚いた。普段バカ話しかしないのに彼らは真面目なトーンでほんまに気をつけろよと注意喚起をしてくれた。
他の地域の子どもたちにも神戸で私たちが受けたような教えを伝えなければならないと本当に思う。日本に住む以上避けて通ってはいけない道だ。日本全国いろんなところに行ったが、経験のない場所の危機感はゼロに近い。遠く離れたアメリカの友人の方がまだある。彼らは震度3でも安否の確認を入れてくるのだ。
またいろんな話になってしまったが、今回はこの辺で。
能登の地震に立ち向かっている方々が少しでもあたたかい夜を過ごせますように
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?