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愛情


今日はわたしの人生を大きく変えた人について書いていこうとおもう。

わたしは16才の頃1年間アメリカに留学していた。今でこそ増えているが、当時高校生での長期の留学は珍しかった。

あまっちょろい観光のような留学ではない。行き先も国しか選べず、あとは運任せ。留学支援団体がホストファミリーを選び、ここに行ってねと航空券が送られてくる。

日本人どころかアジア人すらいない現地の高校に投げ込まれた。黒人が8割を占めるミシガン州のド田舎だった。

留学については別記事で話そうと思うのでかなり割愛するが、現地の高校で出会った先生の一人がわたしの人生を大きく変えた。

彼は音楽の先生だった。音大に5年通いそれはそれは優秀な教師だった。ユーモアがあり若めで背が低いミックスの賢い人だ。先生からも生徒からも保護者からも好かれ授業もとても人気があった。

当初英語なんて話せないわたしは特技で友達をつくる以外に方法がなかったので、スポーツは水泳・陸上・バレーボールと全部の部活に顔を出し、音楽ではピアノから何から全て弾いてみせた。

現地では音楽教育のベースが整ってなく、ピアノを弾ける人自体が珍しい。彼はそんなわたしに声をかけてみんなと仲良くなれるようにたくさん世話を焼いてくれた。

わたしは誰よりもその先生と仲良くなり、他の授業を早めに切り上げてずっと音楽室に入り浸るようになった。1ヶ月ごとに課題曲を決められてはショパンの曲を弾いて聞かせ、いろんな楽器で遊びながら英語も教えてもらい日本文化を教えたり。

とにかく波長が合った。お互いに全てが刺さった。もちろん恋愛関係には一度も発展してない。日本にいる家族より信頼していたし、彼の家族にも妹のようだと紹介され、わたしのホストファミリーにも兄のようだと周りに見守られながら1年間を過ごした。

部活が終わると閉校時間までみんなで音楽室で話したり練習し、終わると自然と彼の車に乗って夜ご飯を食べに行き家まで送ってもらう。そんな生活が当たり前になっていた。

帰国の半年前には彼の計らいで現地の音大の教授に紹介してもらい、週に一度は彼と共に大学に出向きレッスンを受けた。3ヶ月後には5年間全額の奨学金の約束を手にして、帰国の一年後にはその大学に進学する予定まで決まっていた。

たくさんの愛情を注いでもらった。本当に家族のようだった。付かず離れずの本当の家族からは受けたことのない、真っ直ぐな愛情をもらっていた。愛情は人を変える。留学当初は卑屈で自分のことが好きではなかったわたしが、褒められつづけて自信をつけさせてもらってとても強くなった。

外見がどうだとか全く関係のない、友達がいないとかも関係ない、いじめられていたことも関係なく、ただただわたしの中身を誰かに大切に愛してもらえることを知った。

わたしも彼の人間性、教師としてのストイックさ、音楽性、知識の深さ、強さや優しさ、人として心から尊敬していたし信頼していた。


帰国直前にドラマのような信じられない出来事が起こり、彼とは会えなくなってしまった。大学の進学も辞めざるを得なかった。どうにかして帰国後に連絡を取ることができた。しかし今ではもう連絡すら取ることもできない。彼もわたしにいつの日かもう一度会えることを希望に生きていくと言った。

もう一度会いたい。死ぬまでに会いたいが叶うかどうかはわからない。

昨日まで一緒に笑ってた大切な人に突然理不尽に会えなくなることがあるなんて、当時のわたしは耐えられなかった。日本では考えられない、そこはアメリカ異国の地だった。田舎なので当然いまでも差別はあり、偏見にまみれている。

わたしには
"幸せに生きてくれ、どうか忘れずに幸せになってくれ。俺のことは放っておいていい、大丈夫だなんとかなる。またいつか必ず会える。あなたに出会えてとても幸せに思うし、こんなに慕ってくれて誇りに思う。あなたは強くなった。とても美しい素敵な女性になった。絶対に忘れずに、強く生きるんだよ。"
というメッセージを残してわたしの前から姿を消した。

宝物のような時間だった。それからわたしは自分を否定することや卑下することがなくなった。絶対的に愛してくれる人がこの世にまだいるからだ。

存在を否定されて生きてきた人間がこうも変われるのだ。いじめられ、親にはそれを隠し通しながら10年間ほど生きたあとにたくさんの希望をくれた。初めて信頼した人だ。

簡単に探しに行ける距離ではないが、近いうちに必ず会いにいく。

悲しすぎて今でもショパンとドビュッシーはどうしても弾けない。


"Be strong, be happy"

これからもこの言葉を胸に刻んで生きていく。

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