見出し画像

【Digression】表現〔Ausdruck〕と把捉〔Auffassen〕_Status: Draft_

脈絡も突拍子も、まとまりもとりとめもない話、、、

(エンジニアも別に関係ない話)

表現・・・

時折「表現者」とか「表現力」とかいう言葉を耳にするが、この言い回しはあまり好きではない。

どのような「存在」であっても、それは、「世界」の表現〔Ausdruck〕であると考えているためである。(「世界」は、「存在」(「事柄」)の総体であるとか、「存在」とは何か、とか象り方による、とかの議論はあるが、私には力不足、かつ大変面倒なので、とりあえず置いておく)

把捉・・・

「世界」を何某らの「存在」として文節化して考える時、或る存在は世界を「表現している」であると同時に世界の表現として「把捉されている

ちょっと頭がまとまってないので、ここまでで一旦置いておく。

表現と把捉の表裏一体性[双対性]

「表現している」、と「把捉されている」と書くと、認知主体と言われるものを想定されるかもしれないが、よりここでは一般的なものを想定している。

しかし、 話をまとめるため一旦そうした認知主体に話を限定する。

結論から言うと表現と把捉は、表裏一体なのである。「表現している」ならば「表現されたもの」は「把捉されている」のであり、「表現しているもの」も(認知主体であるならば)同時に「把捉している」のである。

この点は、広い意味でのインターフェースを考える際に、念頭に置いておきたい点である。

ここでいう表裏一体である(あるいは双対関係にある)「表現」と「把捉」は、よく言われる何かを、知る・学ぶ(「インプット」する)には、「アウトプットする」ことが良い、という話ではない(もちろんそうした議論いつながるかもしれないが、)。

ここでいう表裏一体、と言うのは、もっと原理的な、あるいは「概念的」に表裏一体の関係であることを指している。

端的に言えば、「表現」なくして「把捉」なく、「把捉」なくして「表現」なし、と言えるだろうか。いや、もっと言えば、一方なくして他方なし、ではなく。「把捉」なし、とは「表現」なしのことであると把捉でき、「把捉」なしとは「表現」なしの異なった表現である、ということである。

何が言いたいかというと・・・

とは言ったものの、最初に言った通りとりとめもまとまりもない話なので、「だからどうだ」、ということはない。ほぼ酔った勢いで書いているの多めに見て欲しい。

ただ、啓発系とか、独学投稿系とかで「インプット」したら「アウトプット」するのが大事とか、「表現者」とか「表現力」とか、そういう言い回しが(本当に個人的に)、好みでない、というか、好みではないなんてものでもなくて、ちょっと違和感、というか、いや言うほどのことでもないので、みんな気にせずに、というそんな感じです。

もちろん勉強したこと、読書したり、聞いた話などを、誰かに伝えるために整理して、話したり書いたりすることの有意義さについて否定するものでは全くないので悪しからず。

まあいつもながらここで述べているのは、当たり前ですが、全くアカデミックでも、専門的でもない見地からの「個人的な、あまりに個人的な」見解です。

私的で詩的な何か

世界の顕れとしての存在は、世界の「複製」であり、同時に世界の「拡張」である・・・


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?