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【Digression】死の恐怖について

注)タイトルほど大それた話じゃないです。 ̶あ̶と̶い̶つ̶も̶の̶こ̶と̶だ̶け̶ど̶、̶エ̶ン̶ジ̶ニ̶ア̶も̶あ̶ん̶ま̶り̶(̶と̶い̶う̶か̶ほ̶ぼ̶全̶く̶)̶関̶係̶な̶い̶で̶す̶。̶ち̶ゃ̶ん̶と̶エ̶ン̶ジ̶ニ̶ア̶リ̶ン̶グ̶の̶話̶の̶記̶事̶も̶あ̶る̶よ̶!̶ あまりにもエンジニアリングっぽくないからタイトルを変更しました。

最近、ふとした瞬間に死について、あるいは死の恐怖、死ぬことへの恐怖心みたいなものについて、何か脳裏をよぎる思いをした。
別に死にかける経験をしたわけじゃない。
まあ、中学、高校とかあたりで、抽象的な死への恐れみたいなものを感じたり考えたりした人は、少なからずいるようには思うが、もちろん私はすでにそんな若々しさとは程遠い人間だ。
ただなんとも形容し難いのだけれど、怖い、とか嫌だ、とか、'死とは何か'とかでもなく、ふと近いうちに死んでしまったら、という雰囲気みたいなものが頭をよぎったのである。

今回は、そんなふとした体験から、ほんのちょっと拗らせた話。

死と恐怖心について

生命の誕生も同様だが、死をどう定義するかに、ついて諸分野、諸専門家の間での合意を得るのは、意外にも(それほど意外ではないかもしれないが)、容易ではない。
死の定義は、恐らくは生の定義と表裏一体、あるいは少なくともかなり密接につながっているように思われる。
仮に死が、認知主体(subjectではなく、agent)が、あらゆる体験、経験を得られなくなることと考えてみた時、死は恐怖たるのだろうか。
古くから言われてきているとは、思うが何らかの感情の認知機構がその機能を失うことと、その体験を想像したり思いを馳せることは異なる事態であるし、故に、例えば「何も怖くなくなること」と「何も怖くなくなることを怖いと感じること」はなんら対立も矛盾もなく成り立つだろうという意見は容易にあがるはずだ。
このことについて今取り上げるのは、いつもながら私の怠惰さゆえに辞めておく。

認知主体(agent)の体験のいくつかのパターンについて

では、何をここで述べるか、、、
それは、あるいくつかのパターンについての単なる疑問のことである。
つまり'死'と言わずとも、より卑近な(死についての議論がこの後の議論にたいして高尚で崇高だとは思わないが)件の話である。
例えば、上の例でもあるが感情の認知機能の喪失についてである。
もちろん「感情は認知されるものなのか」やなんらかの主体、機構による機能なのか、などの議論はまたとりあえず放置する。
簡単な話、何も感情というものが想起されないことについての考察と楽しい、嬉しいなど所謂ポジティブと言われるような感情を感じられなくなった場合を考えたいのだ。
前者の場合、それに対して喜ぶものも居るだろうし恐れるものも居るだろう。恐れるものは、では、感じなくなること自体を恐れているのだろうか。では、さらに後者の場合は、ポジティブな感情を感じられなくなること自体を恐れているのか、あるいはそれがもしかしたらネガティブな感情しか想起しない、という発想から恐れるのだろうか。後者の二つのパターンは同じように思われるかもしれないが、これを区別することはいくつかの議論に繋がる。つまりある感情がそれと相反する(ように思われる)感情と分離可能かあるいは不可分か、感情における中立状態はありうるか(二律背反や排中律に関わりそう?)、またある感情というのはより細かな単位的な感じの複合体、総体か、あるいはそれぞれ独立的なのか、そもそも感情とは評価されたものなのか評価されるものなのか、あるいは評価されされたものであり、さらにまた評価に組み込まれる流れ(ストリーム)の中の一面の抽出なのか、などである。(このあたりは「表現と把捉」という表裏一体、双対の議論、さらには認知機構、意識構造の議論にも繋がる)。

まあ、楽しくありたいよね、という話

あいも変わらずなんのこっちゃな話だけど、要するに何かしらの状況や環境によらずに(まあ、よるんだけど)、楽しく居たい、楽しくありたいよね、って思うんだけど、それってそんな色々犠牲にするもんなんですかね、っていう憤りを誰かと共有したかったのだと思う。
もちろん、「心持ち次第で、全て楽しめるんやで」なんて言うつもりはないけど、ふとした「死への想い」が、むしろ「気分がよい状態を可能な限り積み重ねることで自分の生、人生の構築していこう」という想いを強めてくれたという話。

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