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夜明け前の青の匂い・第4章

 お調子者だった。悩むより笑われていたほうがいい。それでも、自分が言ったことで笑われるのが他人ならそれは時に取り返しがつかないことになるのだと思う。

 煙草は吸わないけれど喫煙室にいた上司から手招きされて僕は透明なガラス戸を開けた。
「速水君、川野さんとはどうなんだ? 結婚するのか? 」
「まだ…… 」
 僕が言葉を濁していると
「不思議だな、速水君とは全く真反対に思えるんだが、まっすぐではあるけれど、なんで川野さんなんだ? 」
 僕は上司から社内で噂になっていた彼女とのことを聞かれて
「ちょうど前の彼女にふられて、誰とも付き合ったことがないって噂されてた川野さんなら僕のことを好きになるのかな? って最初は不純な動機だったんです」
 僕は確かそう話したはずだった。

 僕も上司も彼女が喫煙室の前を通ってエレベーターの方へ歩いていることを知らなかった。しかも僕は煙草の匂いが嫌でドアを持ったまま、少し大声で上司に返事をしていた。僕の背後を通った彼女に僕の言葉のどこが聞こえたのか、きっと
『誰とも付き合ったことがない』とか『不純な動機』とかその部分だけがきっと彼女の脳内で再生され続けたのだと思う。その夜『もういい』と怒りのメッセージが届いた。ちょうど彼女は僕と同棲するために自分が住んでいた部屋からここへ4月20日に引っ越す予定にしていた。引っ越すといっても電化製品は買取業者に引き取ってもらって、ほぼ身につける服やタオル、食器を運ぶだけの簡易的な引っ越しだった。よりによって──というタイミングで。

 僕は彼女の怒りがおさまるまで様子を見ていようと思った。
 今年は例年より桜の開花が遅くて6日土曜日、歓迎会も兼ねて会社近くの川沿いで花見をすると上司が出欠を確認しに僕のところにも来た。手にしていた名簿を見ると彼女のところにはすでに☓がされていて僕は
「もちろん、参加します」
 そう返事をした。◯と☓。
 

「速水さんって面白いですね、もてるでしょ? 」
 花見では幹事に間違えられるほどしゃしゃり出た。ブルーシートをひく場所取りから買い出しの手伝いまで。暇な時間ができて彼女のことを考える自分が何よりも嫌だった。そして、最低なのが、自分の中で出会いなんていくらでもある、と自惚れもあった。誰かを好きになるより、好きにさせて、自分が振り回せばいい。
 僕の隣に座った新入社員の吉川さんは美人で場馴れしていて、会話のテンポもよかった。そのまま、ホテルに行けそうなぐらい──、僕がまた不純なことを考えていると缶ビールを手に持った上司が僕の目の前にやってきて
「そうだ、速水君、川野さんに送別会ぐらいは開かせてくれ、って伝えといてくれよ」
 僕に言ってきた。
「えっ? 速水さんって川野さんと付き合ってらっしゃるんですか? 」
 吉川さんは顔色ひとつ変えずに僕の背中を叩いた。
「えっと……、送別会って? 」
「知らないのか? 彼女、今月末で、退社するんだ、てっきり僕は速水君と結婚するのかと」
「あっ、いや、実は喧嘩していてずっと口聞いてないんです。またふられちゃったかな? こんなお調子者だから、へへ」
 僕は缶に残っていたビールを一気飲みした。そして、吉川さんも少し酔っ払っていたのだろう、花見が終わってゴミをまとめて幹事に手渡した後からずっと僕の隣を歩いていた。
 「川野理沙は僕に『もういい』ってメッセージしてきたんだよ。隣を歩いてくれるなら吉川さんと付き合おうかな? 」
 お調子者の僕の口から出た言葉はその後の僕の人生を変えた。
 最悪のパターンだった。
 速水君が新人の吉川さんと浮気して、川野さんが退社した──。
 お調子者の僕は一気に『最悪な人』会社での評価は一気にさがって、それは吉川さんも同じだった。

*****

「珍しいですね、サラリーマンなのに髪を伸ばされるなんて」
「えっと、昔付き合っていた彼女の父親が漁師をしていて1度だけあったことがあるんですけど、後ろで髪を無造作にひとつに結わえてて、髭も無精髭なのに、男の僕が憧れるほどの色気があったんですよ」
 美容師さんと鏡越しにそんな話をしていると、隣の席で頭にタオルを巻かれていた年配の女性が
「色気は大事ですよ。『駅』って歌知ってますか? 今の歌もいいけれど、昔の歌には色気があったんですよ」
 僕の方を向いて急に話しかけてきた。僕はびっくりして、でも
「帰宅したら聴いてみます」
鏡を見たまま返事をした。

 そんな話をしたことを寝る前に思い出した。『駅 歌』で検索すると竹内まりやという人の歌が出てきた。
 歌を聴いて泣いたことはなかった。
 だけど、その歌を聴いたとき、僕にはそうやって誰かを思う気持ちが欠けていることを知った。誰の手も繋ぎ止めれなかった。吉川さんは働くのが嫌だから結婚して早く家庭を持ちたいと言っていた。
 誕生日プレゼントは婚姻届と言い切るぐらい。
 お調子者の僕だから、結婚には怯んだ。彼女のことは嫌いではない、だけど何かが違う気がした。もしかしたら、似ていたのかもしれない。
 そして彼女はある時期から僕と地元の幼馴染を天秤にかけていた。彼女に婚姻届をプレゼントしたのは地元の幼馴染だった。彼女は煮えきらない僕よりずっと自分のことを好きだと言ってくれていた幼馴染を選んだ。ある意味、正解なのかもしれない。

 結局、僕は35歳過ぎてもひとりだった。結婚式の招待状だけがポストに届いては僕はいつも誰かの幸せに盛大に拍手していた。僕は4月20日火曜日から金曜日まで有給を使って連休をとった。上司はゴールデンウィーク前に連休をとるなんて!! と苦笑いをしていた。1度だけ行った記憶のある川野理沙の実家の近くのホテルを予約した。会えるとは思っていない。でもやっぱりちゃんと話すべきなのだと2920日近くかかって思うのだから僕は馬鹿だ。

 財布の中からETCカードを出したのは久しぶりだった。ナビでホテルの住所を打ち込む。同じ県内なのに表示された目的地までの時間は5時間だった。

 高速のインターをおりると一気に古い邦画の世界に入ったような気になった。
 コンビニがあるものの、古い瓦屋根の家がぽつりぽつりとあるだけだった。ダウンロードしていた『駅』がスピーカーから聴こえてくる。もう涙は出ない。それでもなにか形にはない臓器を掴まれたような気持ちになる。

 フェリー乗り場に着くとちょうどフェリーが出港したあとで次の便まで30分時間があった。車から降りて海をのぞいてみる。青でもエメラルドグリーンでもない。独特の青と緑が混じり合ったような海に海藻が浮かんでいて目を細めるとめだかみたいな小さな魚が泳いでいた。
 
 帰り、自分はどんな気持ちでいるのか──、会えるはずなんかない、きっとまた空っぽのまま、ガソリン代と高速代とホテル代だけを使う連休だ、前もって自分に言い聞かせた、そんなうまくはいかないものだと。

 島に着くとホテルのチェックインは午後3時からでまだ2時間もあった。僕はホテルへ続く坂道を通り過ぎてそのまま彼女の実家へと続く海岸線を走った。
 確か、ここだ。
 広い埋め立て地に車をとめる。
 人も歩いていないし、平日の昼間なのに車も走ってはいなかった。
 普段はかけない車の中におきっぱなしのサングラスをかけて外に出た。彼女がここにいるのかどうかさえわからないし、そもそも誰かと結婚して子供もいるかもしれないのにこうしてここにくるなんて、自分でも呆れていた。道路沿いの自販機にはまだホットの缶コーヒーがあって、僕は寒くもないのに微糖のそれを選んで海へと続いている階段に腰かけた。

 しばらくして『タッタッタッタッ』背後から足音がして後ろを振り向いた。
 水色のバケツをもって黒の半袖のTシャツを着て長靴をはいていた、それは紛れもなく理沙だった。
「こんにちは」
 理沙は僕に気づかず挨拶だけすると階段をおりて、ゆっくりとそのバケツを海面にくぐらせた。
「何してるんですか? 」
「魚、魚を逃がしたんです。時々、いるんですよ、釣った魚で何度も死んだふりをしてお腹を浮かべてはまた泳ぐ、演技をする魚が。そういう魚はなにか使命があるのかもしれないから海へかえすことにしているんです」
 僕はサングラスを外して改めて
「理沙さん、久しぶりです」
 彼女に挨拶をした。
 彼女は驚かなかった。
「知ってました。速水さんが来ること。私、ホテルで働いてるんです。予約リストに速水さんの名前を見た時、ああ家族旅行に来られたんだなと思って見るのが辛いから有給を取りました。平日だし、ちょうどゴールデンウィーク前だし、休むなら今休んで!! ってことで」
「ああ、吉川さんとなら別れたよ。僕の不甲斐なさで結婚に踏み切れなかった」
「変わらずですね」
「理沙さんは? 」
「もててますよ。私でもここでは若いほうだから」
 そこは階段だった。なのに僕は僕の横を通り過ぎようとする彼女の手をつかもうとして海藻で足をすべらせた彼女ごと、僕たちは海へと落ちた。正確に言うと海に浸かった。
 4月とはいえ、まだ海水は冷たい、しかも滑った瞬間に僕は背中を彼女はバランスを崩して足首を痛めたようだった。
 久しぶりに再会したのに最悪だった。僕も彼女もずぶ濡れになった。

「お母さん、ちょっとしたバスタオル!! 」
 彼女が勝手口のドアを開けて叫ぶと母親がバスタオルを持ってきて僕と彼女を見て目を見開いた。
「理沙? 」
「覚えてる? 速水さん、詳しいことは後で話すけど、海に落ちたの、ふたりとも。そうだ、速水さん、とりあげず着替えだけ先に取ってきたら」
 そう言って僕にバスタオルを手渡した。
 そして、僕は思い出した缶コーヒーの横に車のキーを置いていたことを。幸い田舎だから、缶もキーもサングラスもそのまま置いてあって、コンクリートは僕と彼女の身体からこぼれ落ちた海水で濡れていた。 

 一瞬、このまま濡れたままでホテルに行こうか? と考えた。一旦、家の中に入ってしまえば、彼女は僕を責め立てるかもしれない、彼女じゃなくても父親や母親だって。誰かになにかを、言われるのは苦手だ。苦手だからおちゃらけてきた。笑われる方がまだいい。とりあえず後部座席に置いていたボストンバッグを手にして勝手口のドアを開けた。 
 風呂場まで丁寧にタオルが床にひいてあった。

 シャワーを浴びさせてもらってホテルへ行くつもりだった。さっき缶コーヒーを飲んだのに彼女の母親は珈琲を淹れてくれていた。
 そして
「旅行で来られたんですね、なにもないところだけど疲れはとれると思いますよ」
 それ以上、僕に話しかけることはなく
「じゃあ」
 僕に会釈をして2階へあがっていった。
「なんか、ごめん」
「うん」
「お父さんは? 」
「2階で寝てるよ。毎朝、早いから家にいるときは殆ど寝てる」
「お母さんは不満じゃないの? 」
「なんで? 」
「だって寝てばっかりだと…… 」
「お母さんにとってお父さんはもはや生きてくれてるだけでいいんだよ。言葉をかわさなくても阿吽の呼吸があって、私は誰かとそんなふうにはなれないけどね。ところでどうしてまたここに来たの? 確か8年だよね? 疎遠になってから」
「美容院でたまたま年輩の方に『駅』って歌を教えられて聴いていたら、単純に会いたくなったんだ。もちろん、会えるとも海に落ちるとも思ってもいなかった」
「ふぅん、そういうもんなんだね。私は幸せだし、大丈夫だよ。速水さんのことを憎んでもいないし、今は勉強させてもらったと思ってる」
「そっかぁ、じゃあ、ホテルに行くわ」
「うん、じゃあ」
 僕は勝手口から濡れたままのスニーカーをはこうとしていたら
「待って!! これ乾くまで父のクロックスだけど、あげる」
「いや、いいよ」
「だめ、濡れたままのスニーカーはくと臭くなるから」
 彼女は茶色のクロックスを靴箱から出して僕に手渡した。
 車までは見送りにはこなかった。 
 ホテルの駐車場に車を停めて、チェックインをした。フロントには若そうな今流行りの塩顔の従業員がいた。
 ここで働く従業員すべてが彼女を知っているんだ──。
 まだ完全に乾ききっていない髪からは夏の陽射しの匂いがしていた。
 部屋から見える瀬戸内海は最高の眺めのはずだった。なのに彼女と会って海に落ちて話して僕はもう帰りたくなった。
 この部屋の窓からじっと海を見て感動できるほどの生き方を多分、僕はしていない。1泊2万、それを3泊も予約した自分に呆れていた。
 僕は濡れていたスニーカーをベランダに干した。

 8年前にもどれるとして、上司に話しかけられなかったら、今頃、どんな人生を歩んでいたのだろうか? そんなことを思っても、多分、僕が僕である以上、どうやったってこの人生なんだ。ベッドに仰向けになって天井を見た。
 『本当につまらない、つまらない、つまらない、僕には妻がいない!! 』
 誰に送るわけでもないメッセージをスマホのメモのアプリに打ち込んでいた。キャンセル料を払って明日にでも帰ろうか? そう思って僕は部屋を出てエレベーターに乗った。
 エレベーターから出てフロントに行こうとするとフロントの前に彼女がいた。
「よかった、速水さん、食事は部屋? それとも食堂? 」
 彼女は従業員ではなく、僕に聞いてきた。
「それがなにか、川野さんに関係ある? 」
 自分でも驚くほど凄く嫌な言い方だったと思う。
「そうだね」
 彼女はすぐに向きを変えてフロントにいた従業員となにか話しはじめた。

 僕はそのまま外に出てホテルの下の浜辺を歩いた。

「ねぇ、速水さん!! 」
「なんだよ? 」
「何、怒ってるの? 」
 彼女も気がつくと浜辺にきていた。
「8年前の自分が取り返しのつかないことをしたんだなと思って、8年間、取り返そうともしなかったんだな、と思って、川野さんのことも、吉川さんのことも── 」
「吉川さんは結婚したんでしょ? なら取り返しに行くのはやめたほうがいいよ」
「わかったようなことを言えるようになったんだな、理沙も」
「彼女、ずっと速水さんのことがいいって言ってたよ、私にも」
「理沙は後悔してない? 」
「うん、どんなに後悔して、やり直してもあの日の私はやっぱり怒ってる、きっと。今はわかるよ。他人に対して、『理沙が大事です』とか言えないこともね」
 目の前の海は青々とはしていなかった。潮の匂いというより魚屋の生臭い匂いがした。
「この生臭い匂いにもね、季節によってかわるの、今はもう夏の匂いがする。ねぇ、せっかく来たんだから、晩御飯、私も食堂で一緒に食べてもいい? 」
「駄目!! 元カノと友達になれるほど寛容な男じゃありません!! 」
 僕は真顔で理沙を睨んだ。
「そっ、じゃあね、バイバイ」
 理沙も怒ったのだろう、振り返らずにホテルへと続く階段を登っていた。

 結局、僕は食堂でひとりが晩御飯を食べて、翌日からの宿泊予約をキャンセルした。
 まだあと意味のない5連休だ。こんな時、戻れる実家があればいい、彼女のように帰れる場所が僕にはなかった。家について、もうしばらくは使うことのないETCカードをまた財布におさめた。そして、僕はびっくりした。ドアの前には理沙がいた。
「カッコ悪いけど来た。こんなことしたくなかったけど来た。私もまだ連休だから」
 8年と1日過ぎた4月21日、理沙はうちに来て
「そうだ、ホテルのベランダにスニーカー忘れてたよ」
 紙袋の中から僕のスニーカーを取り出した。

 もうしばらくは使うことのないと思っていたETCカードを財布から取り出したのは翌日だった。
 朝起きると部屋には甘い匂いがした。
「理沙? 」
「眠れないから、あんこ煮てたの」
「あんこ? 」
「父がね、テレビを見てあんバタートーストに憧れてて、田舎にはほらっ、そんなモーニングをしてる喫茶店なんてないから、私が夜中、眠れない時、小豆を煮るようになったの」
「もしかして、昨夜、眠れなかった? 」
「うん、だってさ、馬鹿みたいじゃん? 私はもう25歳じゃない。8年も経ってる、なのに一緒に海に落ちて、会いに来られて私も会いに来た。お互い、新しい人見つけろよ!! って感じでしょ? そんなこと考えたら眠れなくなって、眠れないことを話そうと思ったらシャワー浴びたあと、鼾が聞こえてきたからそのままにして、ワタシは鞄の中にいれてたあんこと砂糖を煮たの。菜箸でかき混ぜながら、ねぇ? タッパない? とりあえず丼にあんこ入れてる」
「それって僕が食べる? 」 
「うん、トーストにつけても、焼いた餅につけても美味しいから」
「餅なんて焼かないし、トーストもトースターがないし」
 そう言いながら僕はラップをはがしてスプーンであんこをすくって一口味見した。
「あっ、そうだアイスにも合うよ」
「だね、この味はアイスだ!! 」
 とりあえず、僕は丼に2重にラップをして冷蔵庫に入れたあと、彼女の両親に挨拶するため、彼女と部屋を出た。
 あんこに留守番を頼んで。
 彼女に渡すはずだったしまい込んでいたスペアキーを靴箱の上に置いてあった引き出しから取りだして。
 変わったんだな、とか変わらないんだなとか思いながら無言で彼女に手渡した。

 そして、僕は密かに感謝していた、あの日、美容院で僕に『駅』を教えてくれたあの年配の女性に。

『いってきます』
 僕と彼女は誰もいない部屋に向かってそう言って玄関のドアを静かに閉めた。

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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