第1273回「大用国師の逸話」

大用国師、誠拙周樗禅師にはいろんな逸話が残されています。

月船禅師のもとから円覚寺に来られた時の話はよく知られています。

どんな話なのか季刊、『禅文化』六〇号「誠拙禅師特集」に掲載されている朝比奈宗源老師の文章から引用します。

「誠拙さんが月船老師の印可をうけて後、円覚寺から、どなたか将来円覚寺の中心となって衰微しきったこの寺の再興をするような有為な人物をご推薦願いたいと申入れたのに対し、月船老師は誠拙さんを推し、その大任を命じた。

こんなことを書くのはつらいが、その時分の円覚寺は全く綱紀が緩るみ、僧侶の生活も甚しく乱れていた。

いくら偉いといっても漸く二十七歳であった誠拙さんは、その頽廃の甚しさにあきれ、とても自分のような若僧に改革などできないと思われたので、暫くいて東輝庵へ帰り、月船老師に相見して、

「円覚寺の紊乱は聞きしにまさるもの、私のような者に果せる仕事ではございません、帰って参りました」

と申上げると、老師はその言葉が聞えなかったような様子で、

「わしはこの人を見そこないましたか」と、独語のようにいわれた。

わしはこの人ならきっとやりとげるだろうと信じたが、この人はそれだけの根性はない人であったか、わしの眼が狂っていたのかなあという意味である。

これを聞いた誠拙さんはぐっときた。

老師はそれ程自分を信じて下さったのか、それを知らずに仕事が困難だからとのこのこと帰って来た自分は、なんという腑甲斐ない男か、ううん!と心の下でうなって、 ようし!やらずにおくものかと覚悟をきめ、威儀を正して老師に一礼して、ものもいわずに引下がり、玄関に置いてあった袈裟文庫を肩にひっかけ、直ちに円覚寺に引き返した。

それからの誠拙さんは、すすんでその堕落しきった坊さん達の仲間にとけこみ、賭けごとなどをしている時でさえも席をはずさず、煙草盆の火を入れてやったり茶をくんでやったりして和光同塵し、徐々に一山の風規を改め、三十年もの長い間に、伽藍の修理や再建、僧堂の創建、規矩の制定等々から、その門下に優秀の人材を多数打出し、開山仏光国師の再来と呼ばれ、晩年には仏光国師の法孫の開いた京都の天竜、相国の二大寺に招聘されて、それぞれに僧堂創建したり、さらに南禅その他の諸寺に応請したりして、ひろく天下に化を布かれた。」

と書かれています。

しかし、この話は果たして誠拙禅師のことなのか、疑問があるのです。

朝比奈老師もその点について次のように書かれています。

「しかし、この一旦円覚を下ったという挿話は、『続禅林僧宝伝』第一輯下によると誠拙さんではなく、円覚寺塔頭続灯庵中興の実際法如の伝に出ているが、どうも誠拙さんの話にした方がぴったりする。

大体高僧伝などには余り宗門の見苦しいことは書かないのが例である。

私は相当ながく宝林寺にいて、親しく円覚寺に出入し、本山や近末寺院の間に伝わる話を聞かれたと思う師匠が、体裁をつくろわず、賭事の席で奉仕したことまでまじえて話されたこの話の方が真実味があるように思うが、いかがであろう。」

ということなのです。

そして朝比奈老師は、

「もっとも、この話しを聞いた当時はただ一途に誠拙さんのことと信じ、月船老師の一言に人生の意気を感じ、一言もいわずにすっと立って礼拝して、再び山に帰ったなぞ、若い誠拙さんの颯爽とした姿が目に見えるようで、若い私たちを興奮させた。」

と書かれています。

またもともと気丈な方だったようで、禅文化研究所発行の『禅門逸話集成』第一巻にはこんな話があります。

「誠拙は宇和島藩主伊達侯の菩提寺である仏海寺で、霊印和尚の弟子となった。

誠拙がまだ小僧時代のことである。

ある日、伊達侯が仏海寺を訪ね、和尚と物語りの末、誠拙に肩をたたかせながら、
「小僧、そのほうの打ち方はなかなかよく効くぞ。

今度江戸から帰る時は、いい法衣を買ってきてやろう」
と約束した。

その後、参勤交代から帰った侯は、また仏海寺に来て和尚と語り、例によって誠拙に肩たたきを命じた。

すると誠拙は、
「お殿さまはこの前、江戸から帰る時は、きっといい法衣を買ってきて下さると約束されましたが、法衣はどうなりましたか」

と肩をたたきながらたずねた。

すると侯は、「おお、そうであったな。すっかり忘れておったわ」
と答えた。

これを聞いた誠拙は大いに怒って、「嘘つきめ! 武士に似あわぬ二枚舌だ」
と思いきり侯の頭をなぐって行ってしまった。

驚いたのは師匠の霊印和尚である。

殿さまの頭をなぐったのだから、その場でお手打ちになってもいたしかたのないところだ。

しかし、侯は怒るどころか、にこにこ笑って、

「いやいや、なかなか見どころのある小僧じゃ。 この宇和島で予の頭に手をあげるのはこの小僧だけだ。和尚、これからも目をかけてやれ。末頼もしいやつじゃ」」
という話であります。

そんな権力のある者にもおもねらないご性格は最後まで変わらなかったようです。

朝比奈老師の『獅子吼』という本には、こんな逸話が書かれています。

幕府の権力者であった松平定信公との話であります。

松田定信は白河楽翁とも名乗っていました。

「国師が円覚寺へ参詣に来た松平定信を出迎えたものか、二人の問答に出る般若水は当山の裏門を入ったすぐ左側のちょっとした岩の下にある。

以前は清らかな水がちょろちょろと出て、下のこれも可愛いい滝壺のような水溜りに洒いでいた。

そこには昔から境内の十勝の一つとして般若水という立札があった。

これを見た楽翁は、「般若水というが、この水にどういう仔細があるのですか」ときくと、国師はすかさず、「左様この水は四六時中、般若の真理を説き通しでありますが、あなたには聞こえませんか」と一拶した。

また進んで僧堂の前へ来ると、

「坐禅」と書いた牌が掛けてあるのを見て「坐禅」とは、ときくと「あなたが鉄鞋で一日中に日本国中を一とめぐりすることができても、この坐禅のことばかりはお分りになりませんよ」と、時の天下の権力者を子供扱いしたと伝えられている。」
という話であります。

どれも大用国師の人となりをよく表している逸話であります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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