第1250回「変われることを信じる」

禅宗の教育というのは、教えないことです。

自分自身の修行を振り返ってみても、手取り足取り丁寧に教えてもらったことはほとんどありません。

坐禅でもどうしたら坐れるのか、ただ自分で工夫してきました。

呼吸法でも教わったことはありません。

どうしたら良いのか自分で工夫してきました。

漢詩を作るにしても教わったことはありません。

自分でどうしたら良いのか工夫して勉強して作ってきました。

大学で印度仏教を専門に学びましたので、サンスクリット語やインドの仏教については教わって学びましたが、禅宗の語録などは専ら自分で学んできたものです。

昔の職人の世界のようなもので、手取り足取り教えてくれるものなどなにもなく、ただ人のやっているのを見て盗み取るようにして学んでゆく世界であります。

『鈴木大拙一日一言』に、

「禅者の言葉に「教壊」というがある。これは、教育で却って人間が損われるの義である。
 
物知り顔になって、その実、内面の空虚なものの多く出るのは、誠に教育の弊であると謂わなくてはならぬ。(『全集』十巻 P227)」

という言葉があります。

教えることによって却って人間が損なわれるというのです。

これは、私は教える側も、教わる側も両方が損なわれていると思っています。

『論語』に、

「子の曰わく、憤せずんば啓せず。俳せずんば発せず。一隅を挙げてこれに示し、三隅を以て反えらざれば、則ち復たせざるなり。」

という言葉があります。

岩波文庫の『論語』にある金谷治先生の現代語訳を参照します。

「先生がいわれた、「〔わかりそうでわからず、〕わくわくしているのでなければ、指導しない。(言えそうで言えず、〕口をもぐもぐさせているのでなければ、はっきり教えない。
一つの隅をとりあげて示すとあとの三つの隅で答えるというほどでないと、くりかえすことをしない。」

という意味です。

禅語に啐啄同時という言葉があります。

「啐」は鶏の卵がかえる時、殻の中で雛がつつく音、

「啄」は母鶏が殻を外からつつき破ることで、これが同時でないといけないのです。

外側から母鶏がつつき破るだけではいけないのです。

内側からもつつくことがないとうまくゆきません。

なんとか学ぼうという気持ちがないと、いくら教えても身につくものではありません。

先日も西園美彌先生にお越しいただいて足指、足の裏と丹田の繋がりについて講座を行ってもらいました。

三時間みっしりと学びました。

丁寧に丁寧に足の裏の感覚を呼び覚ましてゆくのです。

足と手で握手をするように握り合わせます。

冷たいと感じるか、あたたかいと感じるのか、いろいろです。

それは手が足をあたたかい、冷たいと感じているのか、足が手をあたたかい、冷たいと感じているのか、自分の感じていることに注意するのです。

これがなかなか分かりにくいものです。

だいたいは手の感覚の方が強いので手で足を感じているものです。

ただそうしてどちらが感じているのか、足の裏に耳を澄ませるようにして感じてゆきます。

この感じてゆくだけで足が変化してゆくのです。

今回のご指導でも西園先生は、二年目三年目の修行僧の変化についてとても褒めてくださっていました。

西園先生のご指導はすぐに効果が現われるので、修行僧たちも日常の中で取り入れて行ってくれています。

すると体が変化してゆくのです。

今までとは違った変化があると楽しいものです。

変わってくるのが実感されると楽しくなってもっとやってみようという気持ちになってきます。

更にどうしたらもっとよくなるのか工夫するようになるものです。

修行僧達の中にも体に敏感な者もいれば、あまり体に敏感でもない者もいます。

スポーツでもしていないと、現代の暮らしでは頭と指先しか使わない暮らしになりかねません。

どうしても感じにくい者もいるものです。

それでも足の指から、足の裏から調えてゆくことによって体が変化することを感じてゆくようになるのです。

そこで、二年前には全く体も硬く、腰も立てることができなかったようなものでもいつ頃からか、変わり始めてゆくのです。

一年前に修行に来た者でも、いつ頃からか、姿勢がはっきりと変わってゆきます。

腰が立って姿勢が変わると、修行に取り組む姿勢も変わるものです。

あまりあれこれと教えることは、人間の本来の良さを壊すことになりかねないのですが、人が変われる、その変わるきっかけを与えてあげることは必要だと感じているのです。

そして、その人が変わるには、どこでスイッチが入るかが分かりません。

私一人の指導だけでなく、いろんな人に教わることによって、どこかで変わってゆくのです。

変わるきっかけを増やしてあげたいと思っています。

今年入った修行僧には、延々と足指足の裏をほぐしていって何をしているのかもわからずにいる者もいたと思います。

それでもどこかで変わるものだと信じています。

そばで見ているだけでは、何か感じてくれているのか不安に思ったりしますが、終わった後の感想を聞いてみると、丹田がどっしりしている感覚がつかめたとか、安定感が増して坐れるようになったとかそれぞれ感じてくれているものです。

足を調えることによって丹田がはっきり自覚されて安定して呼吸も深くなってゆくのです。

まるで魔法のようは不思議な変化があるものですから、西園先生のトレーニングは魔女トレと呼ばれているのです。

今回もまさにその魔女トレを実感する三時間でありました。

最後の数分皆で坐禅をするのですが、いつもの坐禅とは違って皆充実して坐れていると感じたのでありました。

私も両足を橫に開く開脚は得意なのですが、前後の開脚が出来ずに、最近努力してきました。

もうあと一歩というところで、止まってしまっていたのですが、今回三時間足指足の裏をほぐすことによって、前後に開脚してもほぼ完成に近づいたのでした。

まだまだ自分のような年齢でも変われることができるのです。

今はまだピンと来ていない修行僧もこれからきっと変われると信じています。

教えることは壊すことであっても、何か気がつくきっかけは与えたいのであります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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