第1322回「世界を見通す」

夢窓国師が後醍醐天皇の勅命で南禅寺に住されたのは、数え年で五十一歳の時でした。

正中二年一三二五年のことであります。

この年には、正中の変が起こっています。

これは、後醍醐天皇が北条高時を討って政権の回復を企てた政変のことです。

正中元年(1324)挙兵の計画がもれて日野資朝・俊基は捕らえられ、失敗します。

日野資朝は佐渡に配流されて殺されてしまいました。

後醍醐天皇はその意のないことを釈明して事なきを得たのでした。

この年の暮れには大灯国師が、花園法皇に謁しています。

その時には、夢窓国師について批判をされています。

「花園天皇宸記」正中二年十月二日(一三二五年)に書かれています。

「此の如き問答は、すべて未だ教網を出ず。達磨の一宗地を払って尽きん。悲しむべし。悲しむべし。」と述べています。

夢窓国師の問答は、まだ仏教学の範囲を出ていなくて、このようなことでは達磨の伝えた禅の教えは尽きてなくなるだろう、悲しいことだというのです。

明くる年、五十二歳の時には、すでに南禅寺を退かれています。

そして夢窓国師は伊勢熊野を経て鎌倉に帰ります。

伊勢は夢窓国師の故郷であります。

故郷を訪ねてそのあと船で熊野に参詣しています。

那智の滝も拝まれています。

那智は観音の霊場でもあります。

夢窓国師はその生涯にわたって観音様を信仰なされているのです。

この年の十二月に大灯国師は大徳寺を開山されました。

大灯国師は夢窓国師より七歳ほどお若いのです。

嘉暦元年夢窓国師は、鎌倉に戻り、永福寺の傍に南芳庵という庵を建てて住みました。

翌年嘉暦二年に、北条高時の招きに応じて、浄智寺に入寺しました。

しかし、解制の後南芳庵に戻っています。

そしてその年の八月に瑞泉院を開創しています。

錦屏山瑞泉院であります。

二階堂道蘊の開基であります。

翌年五十四歳の時に、瑞泉院に観音堂を作り、更にその裏山に徧界一覧亭を作っています。

徧界一覧亭に題すという偈が残されています。

天尺地を封じて帰休を許す。
遠きを致し深きを鉤って自由を得たり。
此に到って人人眼皮綻ぶ。
河沙の風物、我焉んぞ痩さんや。
という偈です。

現代語訳すると、

「わが庵は、世界を見透す視座を楽しむ

天が、僅かの休息の土地を与えてくれたので、わたしは今、思いのままに、
遠きをきわめ、深きを鉤ることができた。
ここにくると、誰もみな眼のウロコがおちる、
限りなく広がる景色を、わたしはとても隠し切れない。」

という意味です。

訳文は柳田聖山先生の『日本の禅語録7夢窓』によっています。

徧界一覧というのは、世界をすみずみまで一望の下に見通す意味です。

五十五歳の秋に円覚寺から専使がやってきて夢窓国師を迎えようとします。

夢窓国師は固く断りました。

北条高時が、円覚寺の長老や夢窓国師の同門の僧などにも再三円覚寺に住するように頼ませましたが、それでも夢窓国師は肯いませんでした。

円覚寺に法縁のある者がついに嘆き涙を流して頼まれました。

「円覚寺は仏光国師が開創された道場で、先師仏国国師はその正統を受け継いでいる。

今我が法門は夢窓国師以外に誰が宗風を振るえようか。

公命がしばしば出されているのに、断り続けられては、我が法門はどうなるのであろうか」と涙を交えて頼まれるので、ついに夢窓国師は、円覚寺に入寺なされることとなりました。

この年、飢饉で寺にも食べるものがないほどでありましたが、夢窓国師には、それで不快な様子もお見せになることもありませんでした。

やがて豪商が大金を寺に寄進してくれて寺は大いに潤いました。

それでも夢窓国師は喜ぶ様子もありません。

夢窓国師の得失利害にわずかも念を動じない度量の広さに、多くの者は感服したのでありました。

五十六歳、夢窓国師は円覚寺に住すること二年に及びました。

『年譜』には「百廃具に挙す」とありますように、多くの弊害を改められました。

説法なされたことへのお礼などは自分の為にせず、悉く寺の護持の為に用いられました。

夢窓国師は寺の住持たるには三つの素質が必要だと言われています。

それは説法と、多くの人を集めることと、寺の修造だというのです。

夢窓国師は自分には修造がよくできないと謙遜されましたが、この三つを兼ね具えておられたのでありました。

その年の秋九月には、円覚寺から逃れて瑞泉院に帰っています。

円覚寺から追いかけてきた者がいても、門を閉ざして避けられました。

その後鎌倉を出て甲州の牧の荘に赴かれました。

そこで慧林寺を開創されています。

ここでも厳正に規矩を守って多くの衆を接化するのと変わることがなかったのでした。

明くる年、また瑞泉院に帰っています。

北条高時が夢窓国師を建長寺に住するように請いますが、受けられませんでした。

瑞泉院は後に瑞泉寺となります。

瑞泉院から円覚寺に招かれて住し、円覚寺からまた瑞泉院に帰っておらえます。

慧林寺を開創された後もまた瑞泉院にお帰りになっています。

瑞泉院は夢窓国師にとって、大事なお寺だったのだとわかります。

夢窓国師は瑞泉院に徧界一覧亭を作り「天尺地を封じて帰休を許す」と詠われています。

これは、天が、僅かの休息の土地を与えてくれたという意味ですが、夢窓国師にとって瑞泉院は天から賜った心の落ち着く休息の地であったのだろうと察します。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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