第1248回「因果はくらませない」

夏期講座の二日目は、小川隆先生にご登壇願いました。昨年に続いて二度目であります。

かつて鈴木大拙先生が、円覚寺の夏期講座では毎年ご講演なされていたという話を聞いたことがありましたので、ただいまの禅学の世界を代表する小川先生に、当分毎年お願いしようと思っているのです。

こちらもいつも親しくしてもらっていますので、無理を言ってお願いしました。

こころよくお引き受けくださり、有り難いことであります。

私はここしばらく、禅の悟りと現実の暮らしに於ける倫理とのかね合いについて考えていました。

素晴らしい悟りを開いたと認められるような方が、日常の振る舞いが現実の世間に受け容れられないことがあったり、立派に修行された方だけれども修行僧を指導するには問題があるとか、なかなか難しいことがあります。

禅の悟りは、世俗を超えたものです。

常識で推し量ることの出来ない世界であります。

しかし、現実には生身の体のある限り、この二元対立の世界で生きてゆかねばなりません。

そんな問題について考えていて、小川先生は、その百丈野狐の公案を選んでくださったのでした。

今回も実に綿密な資料を用意してくださいました。

当日の資料から百丈野狐の現代語訳を引用させてもらいます。

「百丈和尚の接化の際、いつも一人の老人が大衆とともに聞法していた。

大衆が退けば、老人も退いた。

それがふとある日、退かなかった。そこで百丈が問いかけた。

「わが眼前に立っておるのは、はて何者か?」

すると、老人いわく、「はい、私めは人ではございません。過去、迦葉仏の時、かつてこの山〔百丈山〕に住持しておりました。

ある時、修行僧が〝修行を徹底した人も因果の道理に落ちるか?〟と問いましたので、私は〝因果の道理には落ちぬ〔不落因果〕〟と答えました。

それで、その後五百生もの間、野狐の身に堕ちてしまったのです。

どうか和尚、今、私に代わって一転語をお願いいたします。

野狐の身より脱け出したいのです」。

そして問うた。「修行を徹底した人も因果の道理に落ちましょうか?」

百丈は答えた。「因果の道理には昧まぬ〔不昧因果〕」。

老人はその言下に大悟し、礼拝して言った。

「私めはすでに野狐の身より脱け出して、裏山に居ります。

恐れながら和尚に申し上げます、なにとぞ、僧侶の死去の際のならわしにしたがって、後事のお取り計らいを願います」。」

というものです。

そのあと、百丈和尚は、お坊さんたちを裏山に連れて行って、その岩の下にあった死んだ狐をとりだして、お坊さんの葬儀のように火葬したという話です。

この百丈和尚については、「一日作さざれば、一日食らわず」という言葉で知られています。

お釈迦様の時代は、土の中にいる生き物を殺すからという理由で農耕は禁じられていました。

土の中には必ず虫がいますから、農作物を作ればどうしても虫を殺すことになります。

虫を殺さないようにしようと思ったら鍬は振れません。

ですから、お釈迦様は出家者に農耕を禁じておりました。

けれども、禅を実践するお坊さんたちが集まって増えてきて、とてもインドのように、食事などを皆布施してもらって暮らすことができなくなりました。

そこで中国では農作業をするようになりました。

そのときにお釈迦様が禁じていた畑を耕すことも、仏道に適うのだという教えに変わってゆきました。

それが百丈懐海禅師の頃であるといわれております。

因果の問題はくらますことができないのか、それとも修行すれば因果を超越することができるのかというのがこの問題であります。

耕作の問題にしても、お釈迦様の教えに基づけば、生き物の命を殺める行為となりますので、その行いの報いを受けることになってしまいます。

しかし、百丈禅師は、この現実の世界を越えた悟りに徹すれば、罪もないのだと言っているのです。

これが空の世界でもあります。

空の世界には、罪を受ける者もないのです。

この問題に関連すると思って、私はその日の講座でアングリマーラの話を致しました。

アングリマーラは、百人もの人を殺すという恐ろしい罪を犯しました。

尊敬していた師であるバラモンから百人の人を殺してその指で首飾りを作れと言われて、殺人鬼となってしまったのでした。

百人目に実の母に出会って殺そうとしたところ、お釈迦様の止められてしまい、お寺に入ってお釈迦様の教えを聞いて悟りを開いたのでした。

時の王様はかの殺人鬼をとらえようとしてお釈迦様のお寺に行きました。

しかし、お釈迦様は、「かれは今までの罪を悔い改めて今や慈悲の心に満ちている」といってアングリマーラを引き渡しませんでした。

そこでお釈迦様が仰せになったのが、

「以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。雲を離れた月のように。」

という言葉でした。

これはまさに悟りの世界は、世俗を超えた真理であることを示しています。

しかし、現実には、アングリマーラは町に出ると、多くの人から杖で打たれ、石を投げられて大けがを負わされてしまいます。

因果はくらませないのであります。

今回小川先生も、大珠慧海禅師の言葉を示してくださいました。

一心に修行すれば、過去の罪も消えるのかという問いに対して、大珠禅師は、仏性を見ていない人は、罪は消滅しないけれども、修行して仏性を見た人は、お日さまが霜や雪を照らすように過去の罪も消えると答えているのです。

たとえ罪が山のようにあったとしても悟りを開けば、山のように積んだ枯草もわずかの火でたちまち燃えてしまうようなものだと言っています。

宗教にはこういう世界もあります。

これが救いであります。

どんな罪を犯した者も阿弥陀様は平等に救ってくださるという世界です。

しかし、現実には因果をくらませないのであります。

今の世であれば、当然現実社会の法律に照らし合わせて裁きを受けなければなりません。

不落因果と不昧因果とどちらがよくて、どちらがダメだという話ではありません。

その両方にとらわれないことです。

相反する二つのものは、常に同時に存在しているというのが真理であります。

最後に小川先生は、

「なにもおもはぬは仏のけいこなり
なにもおもはぬ物からなにもかもするがよし」

という至道無難禅師の言葉を紹介してくださいました。

何も思わないのが仏の稽古であり、何も思わぬ態度でなにもかもするがよいというのです。

なにも思わぬは空の世界であり、不落因果の世界です。

その空の世界に目覚めておいて、その上で、現実の世界、因果の世界を生きてゆくというのであります。

白い画用紙に絵を描くようなものだという譬えは分かりやすいものでした。

白い画用紙は空の世界です。

その上に、私たちはいろんな絵を描くのです。

それは不昧因果の世界です。

いろいろ考えてきたことが、よく整理することができたのでした。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?