第1294回「なんでもできてもまだだめ」

汾陽禅師のもとで、寒い夜でも坐禅を休まずに、眠気に襲われると錐で腿をさして目を覚まして坐禅したのが慈明禅師でした。

日本の白隠禅師は、若き日に、この話を知って大いに志を奮い立たせたのでした。

そんな慈明禅師の法を嗣いだのが、楊岐方会禅師で、そのお弟子が白雲守端禅師です。

白雲禅師のもとから五祖法演禅師が出られたのでした。

五祖法演禅師の教えが今日の臨済宗のもとになっています。

宋代を代表する禅僧であります。

楊岐禅師のもとで白雲禅師が修行していたときの逸話があります。

楊岐禅師が白雲禅師に、あなたは誰のもとで得度したのかを聞いて、その方の偈について尋ねました。

「我に明珠一顆有り。久しく塵勞に關鎖せらる。
今朝塵盡きて光生じ、山河萬朶を照破す。」

という偈です。

自分には素晴らしい宝の玉がある、ながらく煩悩の塵の中に埋没していたけれども、今朝その煩悩の塵がなくなって光が現われ、山も川もすべてを照らしているという意味です。

その偈を聞いて、楊岐禅師は笑ったのでした。

白雲禅師は、笑われてしまって一晩考え込んでしまいます。

明くる朝楊岐禅師に参じます。

年の暮れだったようで、楊岐禅師は、考え込んでいる白雲禅師に、夕べ鬼遣らいがあったけれども見たかと問います。

鬼遣らいは、大晦日の夜、悪鬼を払い疫病を除く儀式です。

鬼に扮装した人を追いまわすのです。

多くの人がそれを見て楽しんで笑っているのです。

白雲禅師は鬼遣らいを見ましたと答えます。

楊岐禅師は、あなたのやっていることは、あの鬼遣らいにも及ばぬと言いました。

どういうことですかと問うと、楊岐禅師は、彼は人に笑われて喜び、あなたは笑われるのを怖れていると言いました。

同じように笑われても、それを喜ぶ人もいれば、考え込む者もいるのです。

お笑いの方ならば、笑われるとうれしいでしょう。

そう言われてハタと気がついたという話です。

この話、私は好きな逸話であります。

この白雲禅師のもとで修行されたのが五祖法演禅師であります。

五祖法演禅師は、三十五歳で出家して、はじめは唯識などの学問を学んでいました。

あるとき「冷暖自知」という言葉を見て、この自知するものは何か大きな疑問を持ちました。

そこでその頃講義をしてくれていた僧に尋ねてみますが、そんなことは、南方に行って、仏心宗を伝える者に聞くとよいと言われました。

当時禅のことを仏心宗と言われていたことが分かります。

そこで、はじめ円照宗本禅師という方のもとで修行しました。

この方は雲門宗の方であります。

そこで、臨済禅師の弟子である興化禅師の問答に疑問を持って尋ねますが、円照宗本禅師は、それは臨済の教えだから、臨済の僧に尋ねるとよいと言われます。

そして浮山法遠禅師のもとを訪ねて修行を始めました。

ところがある日、浮山禅師から、自分はもう年をとったので、じゅうぶんな指導をしてあげることができない、私のところにいても時間を無駄にしてしまうから、もっと若い老師のところにゆくがいいと言われました。

それが白雲禅師でありました。

白雲禅師のことを浮山禅師は直接知っていたわけではないのですが、臨済の三頓の棒を詠った頌が見事であったので、すぐれた禅僧であることを見抜いていたのでした。

そうして白雲禅師を薦めたのでした。

五祖禅師はかくして白雲禅師のもとを訪ねました。

そこで僧が南泉の摩尼珠の問答について問うて、白雲禅師に叱責され、悟るところがあったのでした。

摩尼とは何か、岩波書店の『仏教辞典』には、

「サンスクリット語マニに相当する音写。

<珠>または<宝珠>と漢訳し、<摩尼珠><摩尼宝珠>などともいわれる。

摩尼はすなわち珠・宝石類の総称であるが、仏典では不可思議な功力をそなえた宝珠にしばしば言及される。

竜王は髻髪(けいほつ)にそれを蔵め、転輪聖王の七宝の一にも数えられる。

特に<如意宝珠>には、悪疾を癒し、蛇毒を消し、濁水を清めるなどさまざまの願いをかなえる力があるとされている。」

と解説されています。

『証道歌』には「摩尼珠、人識らず、如来蔵裡に親しく収得す」という言葉があります。

禅文化研究所の『証道歌』では、山田無文老師が、

「人々本来、摩尼珠という結構な珠を一つずつ持っておる。

摩尼は翻訳をして、如意という。如意珠である。如意宝珠だ。

それさえ手に入れば、あらゆる幸福がそこから生まれ出て来る。

そういう結構な珠をみんな一つずつ持っておるのだが、みんな知らんだけである。摩尼珠、人識らずだ。」

と提唱されています。

そんな尊い仏心仏性について問答されて、気がついたのでした。

さらに白雲禅師は、五祖禅師にこんな問題を与えました。

「数人の修行者が廬山より来たが、皆ないずれも悟った者ばかりだ。

彼らに説かせたら、禅について十分に説くことが出来て、みなもっともである。

古則因縁を挙して彼らに問うてみたら、彼らはみな分かっている。

禅語を置かせてみると、みな適切な禅語を置くことができる。

ただ要するに未在だ。」

というのです。

未在は「まだだ、まだだめだ」という意味です。

要するに、なんでもできてもまだだめだというのです。

五祖禅師はどこがまだなのか、どこがだめなのか、数日工夫されて、はたと気がつくことがあって、白雲禅師のもとを訪ねました。

白雲禅師も五祖禅師が気づかれたのを見て、大いに喜ばれたのでした。

こんな問答を通して師から弟子へと教えが伝わってゆくのであります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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