第1234回「漱石の参禅」

新宿に区立の漱石山房記念館というのがあります。

そこでただいま『門』ー夏目漱石の参禅ーという展示がなされています。

先日その記念館で「夏目漱石の参禅について」と題して講演をさせてもらいました。

漱石山房記念館は、夏目漱石生誕百五十年にあたる平成二十九年(二〇一七年)に開館されたものです。

まだ新しい記念館であります。

夏目漱石が暮らし、数々の名作を世に送り出した「漱石山房」の書斎、客間、ベランダ式回廊ができる限り忠実に再現されています。

私も講演の始まる一時間前に赴いて拝観させてもらいました。

漱石の著作や関連する本を読みながら、ゆったりと過ごせる図書室やカフェもございます。

とても素晴らしい記念館でありました。

講演は土曜日でもありましたので、多くの方々がお見えになっていました。

今回の展示についてパンフレットには次のように書かれています。

「漱石は、明治27(1894)年の年末から翌年初めにかけて鎌倉円覚寺に参禅しました。

漱石作品の多くに禅味を帯びた表現が見受けられますが、この時の生活や、悟りを開けずに帰京した経験は、明治43(1910)年に東京と大阪の朝日新聞に発表された小説「門」にもっともよく反映されています。

大正3(1914)年の春ごろから、二人の若い雲水(修行僧)と親しく交流するようになり、禅に対する関心をいっそう深めていた矢先に漱石は亡くなってしまいました。
この雲水のうちの一人は、奇しくもかつて参禅時に漱石が止宿した円覚寺塔頭帰源院の住職となり、漱石と交わした手紙が今に伝わっています。

漱石の参禅130年を記念する本展示は、漱石が禅の指導を受けた釈宗演関係資料や漱石作品中の禅に関する記述、雲水に宛てた手紙などをもとに、漱石と禅の関わりについてご紹介します。」

というものです。

展示の主催は、漱石山房記念館で、協力は円覚寺、帰源院、東慶寺、鎌倉漱石の會となっています。

講演の日には有り難いことに帰源院のご住職もお越しくださっていました。

パンフレットにあるように明治二七年の年末から年明けまで円覚寺の中の帰源院に止宿して釈宗演老師に参禅されていたのでした。

明治二七年というと、漱石は二十七歳、釈宗演老師は三十五歳であります。

初めて宗演老師に相見した時の様子が『門』には、

「老師というのは五十格好に見えた。赭黒い光沢(つや)のある顔をしていた。

その皮膚も筋肉もことごとく緊(しま)って、どこにも怠りのないところが、銅像のもたらす印象を、宗助の胸に彫りつけた。

ただ唇があまり厚過ぎるので、そこに幾分の弛みが見えた。

その代り彼の眼には、普通の人間にとうてい見るべからざる一種の精彩が閃めいた。

宗助が始めてその視線に接した時は、暗中に卒然として白刃を見る思があった。

「まあ何から入っても同じであるが」と老師は宗助に向って云った。

「父母未生以前本来の面目は何なんだか、それを一つ考えて見たら善よかろう」」
と書かれています。

まだお若い宗演老師の風貌が描かれています。

そこで「父母未生以前本来の面目」という公案をもらったのでした。

宗演老師に独参をしてご自身の見解を述べられたのですが、

「もっと、ぎろりとしたところを持って来なければ駄目だ」とたちまち云われた。
「そのくらいな事は少し学問をしたものなら誰でも云える」

 宗助は喪家の犬のごとく室中を退いた。後に鈴を振る音が烈しく響いた。」

と書かれています。

『門』には、
「私のようなものにはとうてい悟は開かれそうに有りません」と思いつめたように宜道を捕まえていった。

それは帰る二三日前の事であった。

「いえ信念さえあれば誰でも悟れます」と宜道は躊躇もなく答えた。

「法華の凝り固まりが夢中に太鼓を叩くようにやって御覧なさい。頭の巓辺(てっぺん)から足の爪先までが悉く公案で充実したとき、俄然として新天地が現前するのでございます」と書かれています。

ここに登場する宜道という僧は、釈宗活老師のことだと言われています。

更に『門』には、

「彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦(すく)んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。」と書かれいて、この記述はよく知られているものです。

その当時の漱石の心情をよく言い表しています。

また漱石の『夢十夜』の第二話には、趙州の無字に参じる侍の話が出ています。

「お前は侍である。侍なら悟れぬはずはなかろうと和尚が云った。そういつまでも悟れぬところをもって見ると、御前は侍ではあるまいと言った。人間の屑じゃと言った。ははあ怒ったなと云って笑った。口惜しければ悟った証拠を持って来いと云ってぷいと向をむいた。怪しからん。
 隣の広間の床に据えてある置時計が次の刻を打つまでには、きっと悟って見せる。悟った上で、今夜また入室する。そうして和尚の首と悟りと引替にしてやる。悟らなければ、和尚の命が取れない。どうしても悟らなければならない。自分は侍である。」

という記述は真剣に無字の公案に参じようとする心情がよく書かれています。

釈宗演老師の『臨機応変』には漱石のことが書かれた一章があり、そこには、

「ただ私の知る限りの漱石氏の風格は、我が禅宗の白隠禅師が「吾は禅の侠者なり」といわれているが、そんなように思われてならない。元来が江戸っ子に生まれて、清廉な気質を持っていた氏は、生まれながらに禅味を帯びた人柄であったと思う。然しながら氏の禅の修業は、修業としては大したものではなかったが、氏の性根が仏教乃至東洋思想の根本に触れていたことは知れる。

「則天去私」というのが氏の最後の思想だ、と語られていたとのことだが、それは明らかに大乗仏教の真精神なのである。」

参禅の体験は十分なものではなかったけれども、「生まれながらに禅味を帯びた人柄」として認め、その「則天去私」の思想を大乗仏教の真精神だと高く評価されています。

漱石の葬儀は、宗演老師がお勤めになっているのです。

展示の中でとても興味深かったのが、明治時代に刊行された『禅門法語集』に書き入れをされた言葉でありました。

扉の裏には次のように書かれています。

「禅家の要ハ大ナル疑ヲ起シテ我ハ是何物と日夕刻々討究スルニアルガ如シ。」

「要スルニ非常ニ疑深キ性質ニ生レタル者ニアラネバ悟レストアキラメルヨリ致方ナシ。

従ツテ隻手ノ声、柏樹子、麻三斤悉ク珍分漢ノ藝語ト見ルヨリ外ニ致シ方ナシ。珍重」

と書かれています。

漱石が思っていた禅というのは、当時の公案禅看話禅であったとよく分かります。
ただ漱石にとってはその修行は合わなかったのでしょう。

ただ『禅門法語集』の中の盤珪禅師の語録には、次のように書かれているのです。
「此一節ハ普通ノ禅坊主ノ様ニ禅臭クナクシテ甚ダ心地ヨシ。

普通ノ語録ハ無暗ニ六ヅカシイ語ヲツラネルノミカ六祖ガドウノ二祖ガドウノ臨済ガドウノト大ニ人ヲオビヤカシテナラヌモノダ。

此和尚サンハ只自分丈ノ事ヲ真直ニ云フテ居ル」

と書かれています。

盤珪禅師のことを評価されているのです。

それは、盤珪禅師がご自身の修行時代のことを率直に語っておられるところであります。

他の書き込みなどを読んでも漱石は、宋代の看話禅よりも、唐代の禅の方に親しみがあるように感じました。

あの時代では、『夢十夜』にあるような参禅の修行が中心だったのでしょう。

今の時代であれば、鈴木大拙先生の『禅の思想』なども学べますし、唐代の禅僧である黄檗の伝心法要や、馬祖の教えなども学ぶことができます。

祖堂集の世界などに触れていたらどうだったろうかと想像してみました。

天性禅味を帯びたような方ならば、敢て人為的な公案を通らずとも、そのまま唐代の禅を学ぶという道もあったのではないかと感じたのでした。

そうすれば「門の下に立ち竦(すく)んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人」などと思わずとも、元来門のない世界に触れることも出来たのではないかと思ったのでした。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?