第1283回「土になる」

鈴木大拙先生もまた鈴木正三のことに注目されていました。

もっとも岩波文庫から『驢鞍橋』を校訂して出版されたのは大拙先生であります。
また大拙先生の『日本的霊性』の中にも鈴木正三のことが度々論じられています。

こんなことが説かれています。

岩波文庫の『日本的霊性』から引用します。

「鈴木正三道人の言行を録したる『驢鞍橋』に左の文句がある。

「師、壬辰(みずのえたつ)八月日、武州鳩谷宝勝禅寺に至る。

時に近里の百姓ら数十人来り法要を問う。

師示して曰く、農業すなわち仏行なり。別に用心を求むべからず。

おのおのも体はこれ仏体、心はこれ仏心、業はこれ仏業也。

然れども心向けの一つ悪しき故に、善根を作しながら還って地獄に入らるるなり。

或いは憎い、愛(かわゆ)い、慳(おし)い、貪(ほし)いなどとさまざま私に悪心を作り出し、 今生日夜苦しみ、未来は永劫悪道に堕すは、口惜しきことに非ずや。

しかるあいだ農業を以て業障を尽くすべしと、大願力を起こし、一鍬一鍬に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と耕作せば、必ず仏果に至るべし。云々。」(『驢鞍橋』上巻、九八節)」

という『驢鞍橋』の一節をとりあげて大拙先生は、

「これは幾千鍬を重ねることによって業障を尽くし得るという義ではないのである。

南無阿弥陀仏の一鍬ごとに幾百千劫の業障が消えていくのである。

鍬の数、念仏の数で業障をどうしよう、こうしようというのではないのである。

振り上げる一鍬、振り下ろす一鍬が絶対である、弥陀の本願そのものに通じていくのである、

否、本願そのものなのである。

本願の「静かな、ささやかな声」は、鍬の一上一下に聞えるのである。

正三は禅者であるから禅語彙を用いるが、彼の無意識の意識は、深く親鸞宗の心に通うものがあるのである。

親鸞の念仏は、大地から出て大地に還りゆくものであったに相違ない。

彼は五年か六年かは知らないが、とにかく越後の生活でここに徹するものがあったのであろう。

彼の常陸行きは、縁家の関係であったか否かを知らぬが、彼はみずからの所得底即ち無所得底を、経典の上に証してみんがため、そんな書物の入手可能な地方へ出かけたものではあるまいか。

彼が青年時の煩悩が再発したものと見てよい。

『教行信証』はかくして書かれた。

が、また一方においては彼の言行、人格から溢れ出た弥陀信仰の光は、周囲のものを感化せずにはおかなかった。

即ち教団の如きものがおのずから彼の身をめぐりて成立しかけたのは、彼が在東国の二十年間であった。

在越後の数か年がなかったなら、かくの如き事象は決してあり得なかったであろう。」

と説かれています。

大拙先生が親鸞聖人の念仏を「大地から出て大地に還りゆくもの」と表現されているように、この「大地性」に注目されたのでした。

「大地性」について大拙先生は、『日本的霊性』の中で、

「農民にとって大地は、単なる象徴ではなかった、大地は彼らにとって、生活の最も具体的な基体であった。

起きるのも大地の上、倒れるのも大地の上である、人間の心にとってこれほど究極的な安心の場はない。

更にまた大地は、いかなる不浄をも黙って受入れ、しかもその汙穢を清浄にして返す、人間にとってこれほど寛容で有難い存在はない。

こうして農民の心は大地のまことを体認する、まことはまた宗教の本質である、農民の心が宗教の大地性を感得するのは、当然と言わねばならぬ。

これに反して平安時代の大宮人は、大地から遊離していた、大地のいかなるものであるかを知らなかった。霊性が彼のうちに眼醒めなかったのはこの故である。」

と説かれています。

鈴木正三も「土になって」勤めるということを説いています。

『驢鞍橋』に、

「初心の人は先ず信心を祈り、咒・陀羅尼を繰りて身心を尽くすがよき也。或いは八句の陀羅尼を十万返も、二十万返も、三十六万返も唱えて、業障を尽くされば、志も進み真実も起こるべし。先ずよきお坊主を捨て、一向の土に成りて勤む べし(『驢鞍橋』上巻、一六節)」

とあります。

訳しますと
「初心の人は、先ず信心を祈り、呪・陀羅尼を繰って身心を尽くすのが良い。

或いは八句の陀羅尼を十万回も二十万回も三十六万回も唱えて[自分の] 業の障を尽くせば、志も進み、真実 [心]も起こるであろう。先ず立派な御坊主 [になるという欲望]を捨て、一向の土に成って(謙って)勤めなさい。」

というのであります。

『驢鞍橋』巻上十八に、「あなたも自分の修行の為に良いと思うならば、一向の土に成り、謙って、向上(修行の階梯が進むこと)に眼を着けず、足元から修行するべきである。

怠けた様子をして、大したことでも無いことを鼻にかけて歩こうと思うのであれば、[私のところには] 出入り無用である。」

と説かれています。

このところについて大森曹玄老師は『驢鞍橋講話』の中で、

「正三の禅は一面には念仏禅と言われ、また一面では土になる禅だとも言われる。

色気も娑婆気もすべて捨ててしまって、ただ土になる。

土というものは大勢の人に踏まれながら、腹も立てなければ怒りもしない。

じっと人に踏まれながら人を自由に、こちらからあちらへ渡す。

今では化学製品が多いからそうはいかないけれども、昔ならばこの辺でも、私も鉄舟会道場の下の方で畑をつくっていたが、ごみなどはみなそこに埋めておくと、半年もたてばきれいな土になっていた。

そのように、土には一切を浄化する力がある。

黙々として人を渡し、黙々として汚れたものを浄化していく。

そういうところに土というものの尊さがある。その土になる。」

と提唱されています。

鈴木正三の説かれた教えに「土になる」ということがあります。

これも今日大いに学ぶべきであります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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