第1313回「夢にみる」

夢の話が禅の語録にも見えます。

よく知られたのが、『無門関』にある第二十五則です。

仰山和尚が、夢に弥勒菩薩のところに行って、第三座に坐らされたという話です。

ある尊者が説法の始まりの合図である白槌をして、今日は第三座の説法にあたると告げました。

そこで仰山は立って白槌して、大乗の法は、四句を離れ百非を絶す、よく聞きなさい、よく聞きなさいと言ったという話です。

夢窓国師が、禅宗に転向し夢窓疎石と名乗ったのも夢のはなしがもとになっています。

夢窓国師は、九歳のときに山梨の平塩山寺というお寺で出家をされます。

十八歳のとき、東大寺で受戒しました。

奈良時代以来、正式なお坊さんになるには、東大寺で戒律を受けていました。

その翌年、講師の死という出来事に遭遇します。

夢窓国師に仏教学の講義をしていた講師が病気になって、茫然自失になって亡くなってしまったのでした。

その様子が見るに忍びなかったのでした。

夢窓国師は、こんなことを考えました。

「自分の思うところでは、仏法は真言とか天台とかいろいろあるけれども、その目指すところは煩悩の世界を出て仏道を会得するにあるだけだ。

私の先生は普段は仏教学についての知識が非常に深かった。

しかし、いざ死に臨むとなると狼狽して、仏教学の知識が一文字も役に立たなかった。

それによってわかった、仏法は学問を学んで至るところではないということが。

禅宗というのは教外別伝といって教えや文字の他に伝えることがあるという。

これにはきっと訳があるはずである」

と思ったのでした。

しかし、禅に気持ちは惹かれているものの、まだ自分で確信は得られていません。

そこで夢窓国師は百日間の願をかけるのです。

仏様の前に願をかけて、ひたすら祈って仏様のお告げを待ちました。

その百日があと三日で終わろうとした頃に夢を見ました。

その夢の世界で夢窓国師の前に恍然として異人があらわれて、夢窓国師を引導して行くので、それについて行くと、一つの禅寺に到りました。

山林のたたずまいは甚だ奇異で、殿宇は甚だ厳飾されていますが、人一人も見えず、森閑としていました。

国師はその人にこの寺の名を問うたところ、疎山だと答えました。  

更にまた別の一寺に案内されました。

その名を問うたところ、今度は石頭だと答えました。

その荘麗なことは、前の寺の倍ほどであったといいます。

長老らしい人がいて、国師を迎えて寝堂に引入れて、時候の挨拶をし、座を分って坐せしめました。

そして、そこで会ったお坊さんが掛け軸をくれました。

その掛け軸を広げてみると、達磨さんの絵が描いてありました。

それを見て、はっと目が覚めました。

そのとき「自分はやはり禅宗に深い縁があるんだ」と思ったというのです。

この夢の体験によって、天台や真言の学問をするよりも禅を求めようというふうに思うようになったのでした。

疎山とは、疎山匡仁禅師のことで、生没年は明らかではありませんが、唐末五代の禅僧です。

洞山良价の法を継いでいます。

石頭とは石頭希遷禅師、700年に生まれ790年に亡くなっています。

青原行思の法を継いでいます。

法系からいうと、六祖慧能、青原行思、石頭希遷、薬山惟、雲巌曇晟、洞山良价、疎山匡仁となります。

時代の異なる二人の禅僧ですが、その二人に縁があるという夢を見たというのです。

そこで夢窓国師は二十歳となって、いよいよ禅に参じようとして紀州由良の興国寺を目指します。

興国寺は、法燈国師心地覚心(1207~1298)の開創された禅刹です。

はたしてなぜこの時に、法燈国師のもとに行こうとされたのかが疑問です。

京の都はもちろん、鎌倉にも禅の寺はすでにありました。

鎌倉には建長寺も円覚寺も開創されていたのです。

玉村竹二先生はその著『夢窓国師』(サーラ叢書)の中で、次のように考察されています。

理由のひとつに「国師がその先天的な宗教性から、生来山林隠遁を好んだためで、法燈国師も同一の傾向をもっている人であったから、心を惹かれたのであろう」ということです。
京や鎌倉の町よりも紀州という山林に心惹かれたのではないかというのです。

更に「その二の理由は、国師と密教との関係によるものであろう」と考察されています。

夢窓国師は、真言と縁が深かったのでした。

法燈国師は、高野山の金剛三昧院や粉河寺の誓度院に禅と密とを兼ねて挙揚していたのでありました。

法燈国師のことは、真言宗内において相当聞えていたと察します。

法燈国師の郷里は信州松本であり、夢窓国師の在住した甲州とは隣接の地でもあることも関わるのではないかと想像します。

かくして由良の地を目指して旅立つのでありますが、途中京の都を通りました。

そこで徳照禅人という旧知の者に出会います。

この徳照が夢窓国師に、修行をするのであれば、まず規矩も整っている叢林で修行して、それから深い山の中で修行するのがよいと諭されました。

由良の興国寺は当時まだ叢林として規矩が整っていない状態であったのでした。

その言葉に従って、建仁寺で無隱円範禅師のもとで修行することとなりました。

無隱禅師は建長寺開山蘭渓道隆禅師の弟子でありました。

この頃に僧名をかつての夢に基づいて疎石とし、夢窓を名乗るようになったのでした。

大小の用便以外は席を立つことなく坐禅に努めていたと『年譜』には記されています。

夢でみたことを昔の人は大事にしていたのでした。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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