第830回「只管打坐の力」

先日、ジョアン・ハリファックス老師にお目にかかりました。

ハリファックス老師というのは、どういう方かというと、

老師の著書『Compassion(コンパッション)――状況にのみこまれずに、本当に必要な変容を導く、「共にいる」力』にある略歴を紹介します。

ジョアン・ハリファックス老師(博士)

仏教指導者、禅僧、人類学者。ニューメキシコ州サンタフェにあるウパーヤ禅センター創設者・主管。医学人類学で博士号を取得。 アメリカ国立科学財団で映像人類学の特別研究員、ハーバード大学で医療民族植物学の名誉研究員、米国議会図書館の特別客員研究員も務めてきた。 また、 ウバーヤ禅センターによる、刑務所でのボランティア活動、 ネパールにおける移動診療の活動をはじめた人物でもある。

と書かれています。

1942年のお生まれですから、今年八十一歳になられる方であります。

お若い頃にティク・ナット・ハン師に出逢って大きな影響を受けられたのでした。

その後曹洞宗のバーニーグラスマン老師に師事されて弟子となった方です。

バーニーグラスマン老師というのは、曹洞宗の前角 博雄老師のお弟子なのであります。

前角博雄老師は、鈴木俊隆老師と共にアメリカにおいて曹洞宗の禅を弘められた老師であります。

ハリファックス老師にお目にかかる前日、建長寺で老師の一日「ジョアン・ハリファックス老師と共に 『静寂と洞察』実践会」というのがあるというのを知って、オンラインで受講していました。

老師はとてもお元気そうで、明るいお方でありました。

講座は午前十時から午後四時までという長時間のものでした。

印象に残ったことは、老師が三つの透明性ということを説いていたことでした。

一番目は、自分の体や心、頭の中にある感情など透明性をもってみるということです。

注意というのは普段外に向かっているものですが、自分の体や感情に向けるのです。

自分の内側に何が起っているのかを感じると心は安定するというのです。

透明性をもって自分の内面をクリアにみるということでした。

二番目には、世界が透明に見えることです。

外で起ることが透明に見えることと説かれていました。

例えば死刑囚に接すると、その死に臨む苦しみがはっきりと透明に分かるというのです。

同じように無常についても深く洞察します。

すべては移り変るのだという真理をクリアにみるのです。

十分前に感じていた足の痛みも今は消えていることを知ります。

このことを深くしることはわたしたちを自由にしてくれます。

今外にあると思って経験していることも決して私たちとは隔たってはいない、ひとつのものです。

外気は文字通り外にある空気ですが、それは私の中に入って私を養ってくれています。

森をすべて伐採してしまうと、二酸化炭素ばかりが増えて私たちは生きていられません。

多くの国にもともと住んでいる人たちの文化には、森、空気、水は私たちと同じようにいのちある存在であって、人の役割はそれらを守ることだと説かれています。

実はわたしたちは実は一つの存在、大自然という一つのまとまった存在の中に生きているのです。

そのようにみることによって、私たちはより一層思いやりの心を育むことができます。

瞑想してみると、より深く自分自身をみることによって、この世の中に自分たちはどのような責任があるのかをしっかり感じながら、この世界にいることができるというのです。

これが第二の透明性で、世の中に起る現実を、透明にありのままにみるということです。

三番目には、自分自身が世界に対して透明にあるがままに姿を現わすことだと説かれていました。

オープンに楽にありのままに自然の状態で姿を現わすということです。

罪を感じることなくありのままにいることです。

まわりと一緒にいる心地よさを感じて自分自身居心地よくいることができるのです。

そうすることによって、何か分断された存在であるという意識がなくなります。

特別な存在でもないのです。

実践をすることは特別なことをするのではなく、ただそのままで自然の暖かさをもって存在することです。

このリラックスした状態という練習をするのだというのです。

特別なものになろうというのではなく、自分を批判したりしないのです。

そして分からない、知らないという無知の状態で実践を行うと説かれていました。

同時にいのちある存在へ貢献するという深い願いに基づいて実践をするのです。

自分たちの仲間だけでなく、菩薩の道を深く理解するのです。

それはやさしさ、楽な力の抜けた感覚を持って生きることで、それと同時に他者を救うということが達成できるということでした。

あとで質問がありました。

参加者の方が、この第三の透明性というもの、自分が世界にはっきり透明性をもって姿を現わすということを、もっともよく実現していたのはいつの時代かという質問でした。

ハリファックス老師は、しばし黙然としてから一言

アイドントノーと答えられました。

この一言が素晴らしいと感激しました。

老師は、それは原住民の暮らしなどが近いのかもしれないが、自分はその文化のなかで暮らしていないので分からないというのです。

どんな時代であろうと、それを理想化することは危険だと説かれていました。

それよりも自分が自分らしくよき人として生きることだと親切に説いてくださっていました。

ショーアップという言葉も印象に残りました。

逃げずに自分のすべてをそこに現わすということだそうです。

私は、この老師の「アイドントノー」の一言に老師の真面目を拝見した思いでありました。

まさにハリファックス老師がショーアップされていたのでした。

もっとも老師は死刑囚のおられるところで只管打坐されたりしておられるのです。

円覚寺でお目にかかった時には、ただ坐ることだけで、その人もまわりの人も心が静まってゆくのだと説いてくださいました。

もっと只管打坐の力を信じるべきだと説かれていたのが心に残りました。

円覚寺には藤田一照さんもお越しくださり、三人で鼎談をさせてもらいました。

私たちはただ無心に坐っていればそれだけでまわりに影響があると説いていますが、ハリファックス老師は、死刑囚のもとに行って坐ったり、アウシュビッツやルワンダに行って坐ったり、もっと積極的に行動してショーアップしているのだと学びました。

前日長時間の講座をなさったというのに、円覚寺にお越しいただいた折にもとてもお元気で、慈悲あふれるお姿でありました。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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