第1259回「広大なるかな、心よ」

鎌倉時代に日本に禅を伝えたのは栄西禅師であることはよく知られています。

教科書などにも名前が載っています。

しかし、実際に栄西禅師より早く禅を伝えた方がいらっしゃいます。

それが覚阿という僧であります。

この方は、もと叡山の僧で、承安元年(一一七一)、二九歳で南宋の禅のさかんなことを知り宋の国に入っています。

杭州霊隠寺の瞎堂慧遠という方に参ずること四年で印可を受けています。

慧遠という方は『碧巌録』の著者である圜悟克勤禅師のお弟子であります。

そうして実は栄西禅師よりも早く日本に禅を伝来したのであります。

高倉天皇に召されて、禅について質問されて、ただ笛を奏して答えたという逸話が残されています。

しかし、この覚阿という僧は、叡山に隠遁して弟子を育てることもしなかったそうなのです。

あともう一方大日房能忍という方がいます。

この方は日本達磨宗という一派を開いた方であります。

『禅学大辞典』には、

「平安末より鎌倉初期の人・日本達磨宗の開祖。

房号は大日房。俗姓は平氏・経論を学び、無師自悟して摂津(大阪府)水田の三宝寺において禅風を挙揚する。

しかし、時人に嗣承のないのをそしられ、文治五年(1189)、門弟の二人を宋に遣わし、育王の拙庵徳光に所解を呈し、その印可を受けた。

建久五年(1194)その活躍をねたんだ叡山は朝廷に奏上してこれを弾圧し、宣教を禁止せしめた。後に甥の平景清に殺される。」

と解説されています。

やはり実際に宋の国にいって参禅したのではなく、弟子を派遣して、印可を得たというところが問題でありました。

この方の教えについて詳細は分かりませんが、栄西禅師の『興禅護国論』には、
「ある人がみだりに、禅宗を称して、自らを達磨宗と名乗っています。そして、その者は、「我われは、菩提を得ているのだから、煩悩などは存在しない。だから、戒律は必要ではないし、修行などすることもない。ただ寝転っていればよいのである」と言っています。

これをどう思われますか。」

という問いがございます。

おそらく馬祖禅師の説かれた「道は修習する必要はない。ただ、汚れに染まってはならないだけだ。何を汚れに染まるというのか。もし生死の思いがあって、ことさらな行ないをしたり、目的意識をもったりすれば、それを汚れに染まるというのだ。もし、ずばりとその道に出合いたいと思うなら、あたり前の心が道なのだ。」という教えや、

臨済禅師の説かれた「諸君、仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ。糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。愚人は笑うであろうが、智者ならそこが分かる。」という言葉をそのまま行じたのではないかと察します。

栄西禅師は「この人は、禅の真の教えにとって悪影響を及ぼす以外、何ものでもありません。仏の教えの中に、「空見」という空の教えを誤って解釈している者がいるといわれますが、これがその人です。このような者と共に語り、席を同じくしてはなりません。百日歩いて進むほどの距離を遠ざけるべきです。(『興禅護国論』第三、世人の疑を決するの門)『日本人のこころの言葉 栄西』(創元社)より)」と答えています。

栄西禅師は、南宋に入って虚庵禅師から印可を得て帰ってきたのですが、帰国して三年後にこの大日房能忍と共に比叡山から布教を停止されてしまったのでした。

比叡山から布教を停止されたことに対して『興禅護国論』を著されたのでした。

その序文に「大いなる哉心や」という有名な言葉があります。

講談社『日本の名僧1 栄西』にある古田紹欽先生の現代語訳を引用しましょう。

「広大なるかな人間の心よ、天は空高くして極限がないが、それにしてもその心はその高さを超えて出でるものがあり、地は層が厚くして測ることができないが、それにしてもその心はその厚さの下をそれ以上にひろがり出でるものがある。

太陽や月の光も心の光に較べたら、その光を超え得るものでなく、したがって心の光は日月の光明の上にさらに超出している。仏教が説く宇宙観は、大千三千世界を一大世界とするが、その世界のさらに無数なるものといえば、その世界は窮むべくもないが、心はその窮めることのできない世界をなお超える巨大なものである。

それは太虚とでもいうか、元気とでもいうか、いいようのないものであり、その太虚をも、元気をも、心は内に包み孕むものである。」

というものです。

はじめに五五歳で九州に聖福寺を建立し、その後六〇歳で鎌倉に寿福寺を建立して、六二歳で建仁寺を建てたのでした。

また栄西禅師はお茶を日本に伝えたことでも有名です。

『喫茶養生記』 をお書きになったのは七一歳のときでした。

『喫茶養生記』のはじめに、

「茶は養生の仙薬なり。延齢の妙術なり。山谷之を生ずれば其の地神霊なり。人倫之を採れば其の人長命なり」
と書かれています。

訳しますと「茶は養生の仙薬であり、人の寿命を延ばす妙術を具えたものである。山や谷にこの茶の木が生えれば、その地は神聖にして霊験あらたかな地であり、人がこれを採って飲めば、その人は長命を得るのである。」という意味です。

栄西禅師の建立された建仁寺は、律を重んじて天台や密教も学ぶお寺でありました。

鎌倉幕府とのご縁も深く、そのことが基盤となって、後に鎌倉では建長寺や円覚寺が出来て、本格的な禅の修行が行われるようになったのでした。

やはり栄西禅師の功績は大いなるものであります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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