第739回「異なる宗教を敬う」

本日は一月十五日、小正月です。

小正月というと、『広辞苑』には、「旧暦の正月15日、あるいは正月14日から16日までの称。元日(あるいは元日から7日まで)を大正月というのに対する。今も、さまざまな民俗行事が全国的に残る。」と書かれています。

十五日の朝は、修行道場でも小豆を入れたお粥を皆でいただきます。

そんな伝統の行事も大切にしています。

先日の日曜説教では、坂村真民先生の詩をいくつか紹介しました。

 喜び
信仰が
争いの種となる
そんな信仰なら
捨てた方がいい
大宇宙
大和楽
任せて生きる
喜びよ

 信念と信仰
いろんな木があり
いろんな草があり
それぞれの花を咲かせる
それが宇宙である
だから人間も
各自それぞれ
自分の花を
咲かせねばならぬ
それが信念であり
信仰である
統一しようとすること勿れ
強制しようとすること勿れ

 大念願
殺さず
争わず
互いにいつくしみ
すべて平等に
差別せず
生きる
これが
大宇宙の
大念願なのだ
母なる星地球が
回転しながら
そう唱えている声を
聞く耳を持とう

悲しいかな、信仰をもつことが、争いの種となることも多いのが現実なのであります。

歴史をみれば、多くの宗教戦争が起こっていたのであります。

佐々木閑先生の『日々是修行』(ちくま新書)に

「まっとうな宗教なら、「人を殺せば幸せになれる」とは言わない。「自分が嫌なことは、他人も嫌がるに違いない」という同類への配慮があって初めて、人の心は和むのであって、他者を「殺してやろう」と、心がグツグツ煮えたぎっている者に、安穏などありえないからだ。

宗教の目的が、「穏やかな日々の実現」にあるなら、そこには必ず「同類を殺すな」という教えが入ってくる。

だから宗教は、流血とは一切無縁なはずなのだ。

ところが話は逆だ。誰もが知る通り、多くの宗教の過去は血塗られている。

宗教のせいで殺された人の数は想像もつかない。

これはあまりに大きな矛盾ではないか。」

と書かれている通り、大きな矛盾を抱えているのです。

『ダライ・ラマの仏教入門』を修行僧達と輪読してきて、最後のところに、ダライ・ラマ猊下が、

「他の宗教を信じる人々といかにつきあうか」について書かれていました。

そこには

「命あるものはさまざまな種類の性質や関心を有しているので、仏陀はさまざまなレヴェルの修行を設定しました。

これを認識することによって、仏教の教えに対して正しい見解が得られるばかりか、世界中のあらゆる異なったタイプの宗教に対しても心の奥底から尊敬を感じることができるようになります。

あらゆる宗教はみな信じるものにとっては恵み深いものだからです。」

と書かれています。

人は皆平等であります。

しかし、生まれや育ち、教育や環境などによって、いろんな考えを持ちます。いろんな性格を持っています。

ダライ・ラマ猊下は

「たとえどんなに哲学上の相違が大きく、それが、根本的なものであったとしても、なおある種の人々の関心や性質に応じていれば、それらの哲学はそれらの人の行動にとっては適切であり恵み深いものであることが理解できるはずです。

このことを理解することによって他の宗教に対する深い尊敬が生まれるのです。

今日私たちは、互いを尊敬しあい、理解しあうということを大変必要としています。」

とはっきり説かれています。

そして更に

「命あるものがさまざまな性質や好みを持っているという事実を考えれば、 造物主の観念が非常に有用であり、合っている人もいるのです。

ですから、仏教徒が他の宗教を奉ずる人を非難したり、共に働くことをむやみにいやがったりするべきではありません。 」

と明言されています。

たしかに仏教では、この世界を作り出した絶対者の存在を認めることはしません。

むしろ、その否定から仏教は興ったのであります。

そうかといって、造物主を認める宗教は間違いだと、攻撃するようなことはしないのです。

異なる宗教にも尊敬の念を持つことが大切であります。

佐々木閑先生は

「なぜ宗教が殺人と結びつくのか。

その一番の理由は、「同類を殺すな」という場合の「同類」 の意味の取り違えである。

それを「同じ考えを持つ者」と限定してしまうと、「自分たちの考えに従わない者は同類ではない。敵だ。敵なら殺しても構わない」という理屈になる。

殺さないまでも、「敵なら苦しめてもよい」と、憎しみが正当化される。

「同類」の意味をどう設定するかで宗教は、優しく穏やかなものになったり、苛烈で排他的なものになったりする。

その宗教がどれほど平和的で穏健なものか知りたければ、その宗教の「同類意識の幅の広さ」を見ればよい。

同じ宗教仲間だけでがっちり砦を築いて、外部の者を敵対視する宗教は、必ず暴力性を帯びてくるのだ。」

と『日々是修行』の中で説かれています。

仏教の歴史を見ても、反省すべきところは多々ございます。

しかし、佐々木先生は、

「だが釈迦にまで遡れば、そこに暴力の影はない」と断言されています。

「釈迦の仏教は、「人には、仏の教えで助かる者もいれば、そっぽを向いて別の道を行く者もいる。せめて、こちらを向いてくれる者だけでも助けよう」と考える。
自分たちの考えを認めない者を「教えの敵だからやっつけよう」などとは思わない。

「こちらへ来てくれないのは残念だ」と失望するだけだ。

すべての生き物は「同類」なのである。

釈迦の仏教は「考えは異なっていても、生き物としては皆同類だ」と考えることで一切の暴力性を振り払った。

その理念は、現代社会でも貴重な指針となるだろう。」と書かれています。

坂村真民先生は

 まなざし
まなざしを
変えない限り
戦争は起こり
平和は来ない
憎しみの心を
捨てない限り
争いは絶えなく
幸せは来ない
無差別平等の
宇宙のまなざしを持つ
新しい人間の
出現を祈ろう

と詠われました。

生き物は皆同類、仲間だというまなざしを持ちたいのです。

そんなことを思う小正月であります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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