第903回「未来を創ることば」

村上信夫さんが開催されている、大人の寺子屋「次世代継承塾」がこのたび一冊の本にまとめられて出版されました。

タイトルが、『未来を創ることば 次世代へのメッセージ』であります。

本の帯には、この本に登場している方々の名前が載せられています。

横田南嶺(円覚寺派管長) 「一寸先は光」
吉元由美 (作詞家) 「魂が喜ぶように」
山本一力 (作家) 「江戸っ子に学ぶ心意気」
榎木孝明(俳優) 「時代劇は生き残れるか!?」
安岡定子(論語塾主宰) 「論語は心を整える」
高橋和(将棋棋士) 「感情は将棋で学べる」
柳家花緑 (落語家) 「祖父から受け継いだこと」
信友直子 (映画監督) 「ぼけますからよろしくと言われた娘」
十六代小原治五右衛門 (城端蒔絵) 「脱皮と深化」
高野登 (元・リッツカールトン日本支社長) 「品格を磨く」
秋吉沙羅 (篠笛神楽笛奏者) 「守破離の笛」
木村まさ子 (言の葉語り) 「みんないっしょ」

というものです。

なんと私が巻頭なのであります。

本のまえがきに村上さんが次のように書かれています。

2022年4月1日金曜日。「おついたち」の新月の夜。
新しいことを始めるには、最幸の日に、大人の寺子屋がスタートした。
会場は、文京区の麟祥院。江戸時代、徳川家光の乳母として権勢を誇った春日局の菩提寺だ。 ボクの故郷は、兵庫県丹波市春日町。春日局の出生地と終焉の地。
春日局に導かれるようにして、この場所で、寺子屋をさせていただくことになった。

ことばが揺らいでいる。
ふるまいが揺らいでいる。
考え方が揺らいでいる。
いまこそ、ぶれない軸を持った生き方が求められる。
人の心にやさしく浸透していくことばで、次世代に伝えることを語り合う。
毎回、様々な事柄に精通した人々をゲストに迎えた。
含蓄のある語られることばは、未来の方向性を示唆するものばかりだ。
次世代にバトンを渡すきっかけになれば幸甚だ。

というものです。

昨年の四月一日、この村上さんの次世代継承塾のトップバッターとして私が選ばれたのでした。

次世代に伝えたい言葉として真っ先に思い浮かんだのが、「一寸先は光」でした。
坂村真民先生の「鳥は飛ばねばならぬ」を朗読して話を始めたのでした。

一部を引用します。

「例えば、我々の命がどこからやってきたのかわかる人はいるでしょうか?

わたくしは、人間の命はずっと昔から連続していて、この先もずっと連続していくものだと感じています。

命はある日突然発生するわけではなく、少なくとも親を通じて命はつながっています。

今日の科学的な見地から考えても、我々の遺伝子の中には遠い過去の情報が組み込まれているとされていますし、脳の中にはヒトになる前の記憶や、爬虫類・魚類だった頃の部分が残っているとも言われます。

こう考えると、今自分の手元にある命が自分一代限りのものだとは、どうにも思えないのです。

でも、結局のところ我々の命がどこからやってきたのかはわかりません。

わかりませんが、それでいいのです。

そもそも、「すっかりわかってしまいたい」という考え方に、大いなる問題があります。

「わかる」は「分かる」です。

必ず分断を生みますし、傲慢にもなりがちです。

一方でわからないことをそのまま受け入れれば融和の道が見えてきますし、謙虚でいられます。

このような考え方を持つと、世の中が元来わからないことばかりだということが了解できます。

そして同時にひとつだけ、わかることが見えてきます。

それは自分が生きているということです。」

と書いています。

更に

「「生きているかどうかもわからない」と言うと、昔の禅宗では棒を持ってきて引っ叩いて、「どうだ、痛いだろう? それは生きているからだ」とやったものですが、そんなことをしなくても、今わたくしの話を聞いているという意識があるだけで、命があるという何よりの証拠になります。

しかし「では何が話を聞いているのか?」と問われると、やっぱりわかりません。

「耳が聞いている」と答えたくなるかもしれませんが、これは単なる道具でしかありません。

三半規管の中を探しても、脳を割って確かめてみても、話を聞いているものは出てこないでしょう。

どこから来たのかも、どこにいるのかもわからないけれど、とにかく今、我々は生きています。

それこそがこの世界いっぱいに溢れている、かけがえのない命なのです。

そういうものをいただいて、今ここに座って生きている。

この話を聞いている。これだけでとてもありがたく、素晴らしいことではないでしょうか。」

というように、いのちの不思議について語っています。

各章の終わりに、「村上信夫の後説」というのがあります

私のところには、私を第一回に招いたいきさつが書かれています。

「第1回のゲストは、臨済宗円覚寺派管長の横田南嶺さん。

下見に行ったとき、麟祥院本堂に横田さんが達磨さんを描いた掛け軸を見つけた。

禅の勉強会で、再三、横田さんがここを訪れていると知り、お寺で始めるにあたって、最初に招くのは、この人しかいないと思った。」

ということでした。

確かに毎月お伺いしているお寺なのです。

「南嶺さんは、全然堅苦しい人ではない。 柔軟な思考の人。 ユーモアのある人。 高みにつかない人。

会場のひな壇につくやいなや「まるで結婚発表の記者会見場のようですね」と笑いを誘う。

ボクが「第1回なので、いささかキンチョーしている」と言うと、「キンチョーは夏だけにしてください」と返す。ギャグに同じ匂いを感じる。」

と書いてくださっています。

「南嶺さんの敬愛する坂村真民の詩『鳥は飛ばねばならぬ」に、「一寸先は闇ではなく光であることを知らねばならぬ」という言葉がある。

そう思うだけで、明るい未来が感じられる。闇と思えば闇が、 光と思えば光が現れる。

「人は生きねばならぬ」のである。

生きることの意味を考えなくていいのだ。

生きることが意味なのだ。

「の」と「が」で大きな違いがある。

先祖から受け継いだバトンを次の世代に渡すため、全力で生きねばならないのだ。」と書いてくださっています。

村上さんの熱い思いがこもった一冊です。

また私以外のゲストの方のお話がどれもみな素晴らしく、是非ともおすすめしたい一冊です。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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