第1223回「糞掃衣」

禅宗では修行僧のことを衲僧という場合があります。

また修行僧を雲水とも言いますが、雲衲という表現をすることもあります。

それから、自分自身のことを謙遜して「小衲」ということもあります。

「小生」などというのと同じであります。

衲僧とは衲衣を来た修行僧という意味です。

「衲衣」とは『仏教辞典』には。

「<納衣>とも書く。ぼろ布を綴りあわせて作った衣の意。

<糞掃衣>とほぼ同義である。

インドの初期仏教の修行僧は、これを衣服として身にまとった。」

と解説されています。

そして「衲僧」とは、

「衲衣を着ている修行僧の意。

インドの最初期仏教の修行僧たちは、糞掃衣と呼ばれる襤褸(らんる)すなわち破れ衣を着用していたが、その風は中国の禅僧たちにも伝えられ、禅僧たちは自らを指して、<わたくし>という意味で<衲僧>とか<衲子>と言った。」

と解説されています。

僧侶が拠り所とすべき四依法というのがあります。

それは糞掃衣住(ふんぞうえじゅう)・乞食住(こつじきじゅう)・樹下住(じゅげじゅう)・陳棄薬住(ちんきやくじゅう)の四つです。

これは出家修行者が修行生活の依り所とすべきもので、托鉢によって得た食物をいただいて暮らすこと、糞掃衣を身にまとうこと、住まいとしての樹下の坐臥所、陳棄薬を薬として用いることの四つです。

僧侶が身にまとうものを「袈裟」といいますが、

『仏教辞典』には、

「袈裟。原語は赤褐色を意味し、<壊色><染衣(ぜんえ)>などと漢訳される。

比丘の三衣をその色から<袈裟>と称するようになった。

壊色については諸説あるが、鮮明な原色を避け、青・黒(泥)・茜(あかね)(木蘭)など混濁した<不正色(ふしょうじき)>を指す。

比丘の衣は、塵埃の集積所または墓地などに捨てられていた布の断片を縫い合わせて作った糞掃衣(衲衣)が原則であったから、衣服(えぶく)についての欲望を制するために、一般の在家者がかえりみない布の小片を綴り合わせて染色(ぜんじき)したものが用いられたのである」

と解説されています。

袈裟は、ゴミ捨て場や墓地に捨てられた布を集めて縫い合わせたのでした。

「糞掃衣」については、次の解説が『仏教辞典』にあります。

「ぼろきれの衣という意。

ごみためや路地などに無価値なものとして捨てられたぼろきれを拾い集めて、その丈夫な部分を取ってよく洗い、それらを綴って1枚の四角い衣としたもの。

最初期仏教の修行僧はこれを身にまとっていた。」というものです。

それがだんだんといつの間にか、新しい布で作るようになってゆきました。

それでも小さな布を縫い合わせているのは変わりありません。

よく「衣鉢を継ぐ」という言葉を使うことがあります。

「衣鉢」とは『広辞苑』に、

「三衣と一鉢。ともに僧侶の所持品。また、法をついだ証拠として師僧から弟子に伝える袈裟と鉢。」

という仏教語としての意味と、

「一般に、宗教・芸術などで師から伝える奥義。また、前人の事業・行跡など。」という解説があって「衣鉢を継ぐ」という用例が示されています。

禅宗では師匠から弟子に法を伝えたしるしに、衣鉢を授けるという伝統がありました。

その発端は達磨大師が二祖慧可大師に、袈裟を授けたということなのです。

達磨大師から五代目の五祖弘忍禅師が、六祖慧能の袈裟を伝えたという話はよく知られています。

景徳伝灯録には、達磨大師がインドからお見えになって、法を伝えたといっても人は信じないので、袈裟を与えて証としたと書かれています。

今は信心も熟したので、そのような証は不要であり、むしろ争いの種となるので、伝えられなくなったというのです。

争いの種とは、まさに五祖禅師がまだ修行に来て間もない青年の慧能の袈裟を伝授したので、それを取り返そうと恵明上座が追いかけて取り返そうとしたという話が伝わっているほどなのです。

それで六祖から袈裟を伝えることはなくなったと言われていますが、まだ袈裟を伝えるという習慣は続きました。

各寺には伝法衣という袈裟が伝えられています。

円覚寺にも仏鑑禅師から伝えられたという袈裟が今に残っています。

さて達磨大師が日本に見えて、片岡で聖徳太子にであって聖徳太子から着物を与えられたという話がありました。

その衣が袈裟となって今も伝わっているというのです。

法隆寺献納物という東京国立博物館に保管されている宝物のなかに、釈尊糞掃衣、聖徳太子糞掃衣、そして達磨大師御袈裟というのがあるそうです。

この達磨大師御袈裟というのが赤褐色の絹製で重要文化財になっています。

それと聖徳太子糞掃衣というのも伝わっているのです。

その聖徳太子が着ていたとされる日本最古の袈裟である「糞掃衣」をこの現代に再現しようという計画が昨年から神戸の須磨寺様で行われています。

「令和の糞掃衣プロジェクト」というものです。

奈良国立博物館の三田覚之先生の監修のもとに行われています。

昨年の七月から、境内の桜の木などで作った樹木布を、多くの方が一針一針、丁寧に縫い合わせて作っているのです。

私も昨年の九月に須磨寺を訪ねた際に、龍雲寺の細川さんと共にほんの少し針を通させてもらいました。

それがもうほぼ完成していて、今月の二十五日に披露されることになっています。

もう一度、終わりに方になりますが、一針をいれて欲しいと須磨寺の小池陽人さんから頼まれて、先日京都の花園大学の授業に行った折に、少しだけ縫わせてもらいました。

この糞掃衣は、四角い布を縫い合わせるのではなく、いろんな形の布が縫い合わされた独自のものです。

それぞれ染色された布で、なんとも言えぬ風合いのある御袈裟でした。

須磨寺で大事にされて、きっと将来文化財にもなるものです。

そんな大きな尊い計画にほんの少し関わることが出来て、法縁に感謝しています。

私などはこの頃、綺麗な布の御袈裟をつけることが多いのですが、この糞掃衣の心を忘れてはいけないと思いました。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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