第1264回「含羞の人が厚顔無恥に」

先日麟祥院で小川隆先生の講義を拝聴していました。

いつもは『宗門武庫』の講義ですが、前回と今回は、天平の両錯という公案についてです。

大乗寺の河野徹山老師が、先般の妙心寺歴住開堂の時に、この天平の両錯の公案を拈提されたことがきっかけであります。

私どもは、この公案を『碧巌録』で学んでいます。

『碧巌録』九十八則にある公案の本文を学んでみましょう。

末木文美士先生の『現代語訳 碧巌録』(岩波書店)にある現代語訳を引用します。

著語は省いて本文のみを引用します。

「天平和尚が行脚していた時、西院に参じた。

いつも「仏法が判ったなどということはもとより、先人の逸話を取り上げる者を探してもおらんぞ」と言っていた。

ある日、西院が遠くから見て、呼んで言った、「従漪君」。

天平は頭を挙げた。

西院は言った、「しくじったぞ」。

天平は二、三歩歩いた。

西院はまた言った、「しくじったぞ」。

天平は近寄った。

西院「いましがたのこの二つのしくじりは、私がしくじったのか、あなたがしくじったのか」。

天平「私がしくじりました」。

西院「しくじったぞ」。

天平は言葉につまった。

西院は言った、「まずはここで夏安居を過ごしたまえ。あなたとこの二つのしくじりを考えよう」。

天平はすぐさま出発した。

後、寺院の住持となって、皆に語った。

「わしはそのかみ行脚していた時、宿業の風に吹かれて思明長老(西院)のところへ行き、二連発でしくじったとやられ、更に夏安居を過ごすようにと留められ、ともに考えようといわれた。わしはその時にしくじったなどとはいわん。南方に向けて出発した時、既にしくじったと知っていたのだ」。」

という話なのであります。

この公案が、どのように提唱されているのか、朝比奈宗源老師の『碧巌録提唱』(山喜房仏書林)から参照してみます。
朝比奈老師は「我が発足して南方に向って去りし時、早く知んぬ錯と道ひ了ることをと。」というところを、

「南方に向うということには、故事があって、『華厳経入法界品』に善財童子が悟りを求め、南に向って行脚して、多くの善知識に参じ、最後に五十三人目に普賢菩薩のところへ行って本当の悟りを得て佛になる。その故事から、師を求めて行脚し、佛道修行をすることを南方に行脚するという。」
と解説されています。

そして「「我発足して南方に向って去りし時」 わしが行脚に出た時です。

「早く知んぬ錯と道ひ了ることをと」本当は、それが間違いであったと気付いた、こういうことです。

これは、佛道の基本からいえば、お互いは本来佛です。 「衆生本来佛なり」ただ修行をしてなるほどそうだということを確認する、明らめる。

ですから少し軽薄な修行者は、ちょっとわかると、ああこれでいい、何だ、元から佛じゃないか、そんなに苦しんで修行なんかする必要はない。

本来佛なんだ、これでいいんだ、こういう見方をしてしまいます。」

と説かれているのです。

「少し軽薄な修行者」とは、この天平和尚のことを指しています。

実際に、『碧巌録』の頌では、雪竇禅師が、

「禅家の人々は、軽薄がお好き。
腹一杯になるまでとりくんでいても運用できず、
悲しく可笑しい天平の爺さん、
そのかみ行脚したのが残念だなどという。」

と詠われているのです。

朝比奈老師もここのところを提唱して、

「禪家流、輕薄を愛す、実にひどいことを言ったものです。

禅の宗風とは反対です、禅者たちは軽薄なことが好きだというのです、けれどもこれは人間誰でもの弱点ですよ。

少しわかればもう全部わかったようになって自惚れる。

この天平がそれです。

「常に云ふ、云ふこと勿れ佛法を会すと、この拳話の人を求むるにまたなし」お前たちは佛法がわかったなどというな、第一、わしの話のわかる奴はいないじゃないか、こう自惚れていた。そんなのを軽薄というのです。

空見識です。西院に二つの錯を下されたら手も足も出ない。」

と説かれています。

天平和尚のことを「いわゆる「一枚悟り」といっている。

ただ、「衆生本来佛」といっただけで、まだまだ本当の働きは出て来ないのです。

そこで雪竇はまたうたって、悲しむに堪へたり笑ふに堪へたり天平老。

天平老従漪、情けないやらおかしいやら、一人で少しばかり禅の匂いを嗅いで、佛法はもうすっかり手に入ったなどと自惚れて、さっぱり働きも何もありはしない。」というのであります。

こういう提唱は圜悟禅師の評唱などを忠実に読まれての説であります。

しかし、小川先生のご研究によれば、これは『碧巌録』でそのように説かれるようになったのであって、もともと『景徳伝灯録』では表現が違っているのです。

もともとは、「南方に向けて出発した時」とは言っていないのです。

西院思明長老から一夏留まってこの二つのしくじりについて商量しようと言われながらも、それを振り切って行脚したことがしくじりだったと後悔しているというのです。

臨済禅師の逸話も紹介してくださいました。

岩波文庫『臨済録』にある入矢義高先生の訳を紹介します。

「夏安居の半ばに、師は黄檗山に上った。黄檗和尚がお経を読んでいるのを見て、「私はあなたこそはと思っていましたが、なんだ黒豆食い(お経読み)の老和尚だったんですか」と言った。

数日いて、下山の挨拶をすると、黄檗は言った、「そなたは安居の規則を破って夏の途中にやって来て、まだ安居も済まないうちに帰るのか。」

師「私はちょっと和尚にお目にかかりに来ただけです。」

黄檗はそこで棒で打って追い出した。

師は数里行ったところで「はてな、待てよ」と思い、引っ返して安居を黄檗のもとで終えた。」

という話です。

この時の臨済のように、師の言葉に従って一夏を勤めればよかったと率直な悔恨であると読むべきだと小川先生は解説されていました。

それが、本来仏であるのに、そもそも行脚にでたことが間違いだったと晩年になってもうそぶく自了の漢、軽薄なうぬぼれた禅僧として説かれてしまうようになったというのであります。

天平が軽薄な禅僧となされていることは、朝比奈老師の提唱にもある通りなのです。

簡単にまとめましたが、小川先生の詳細なご研究は、『続・語録のことば』(禅文化研究所)や『語録の思想史』(岩波書店)に論じられいます。

朝比奈老師は「「佛道は山に登るが如く、いよいよ登ればいよいよ高く、海に入るが如く、いよいよ入ればいよいよ深し」という。

何の道でもちょっとやればちょっとわかる、それだけで済むと思ったら違う。いよいよ入ればいよいよ深しという子細がある。」と説かれていますが、人は本来仏だといって安易に受けとめていいものではないことを強調するために、率直に悔恨の思いを述べた含羞の僧が、一枚悟りの厚顔無恥な僧とされてしまったのでした。

なにも天平和尚を貶めるためではなく、本来仏などと容易に受けとめて安住してはならぬことを知らしめるためだったのであります。

禅語録の深い読み方を学んだのでありました。

しかし、天平和尚はやはり気の毒であります。

悲しむに堪えたり天平老、雪竇老によって軽薄呼ばわりされるとはと言いたいところであります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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