第652回「空という真理に基づく慈悲」

本日十月二十日です。

本日は修行道場の開講といって、後期の修行期間が始まる日でもあります。

まずは一週間、入制摂心といって、坐禅に集中します。
三種の慈悲ということで、衆生縁の慈悲、法縁の慈悲、無縁の慈悲の三つについて昨日学びました。

衆生縁の慈悲というのは誰しも行い易いものです。

かわいそうだと思ってなにかしてあげるのです。

これが慈悲の基本でもあります。

しかし、これだけでは、自分の身内だけにとどまってしまったりします。

そこで法縁の慈悲というのが大切になってきます。

これは、法という真理を縁として起こす慈悲であります。

一切法空の理を縁として施すというものです。

空というのは、一切存在するものは固定的実体をもたない、無自性空なるものということであります。

井筒俊彦先生の『イスラーム哲学の原像』には、次のことが書かれています。

「意識の表層にうつる現実は、いろいろな事物が物質的にはっきり識別されまして、それら相互のあいだにさまざまな関係、静的・動的な関係の成立している世界であります。」

というのが、これが私たちが暮らしている現実の世界です。

現象世界、般若心経で説く色の世界であります。

更に

「そこで、観想修行によって意識の深部が開かれていきますと、この現実の言語的分節の枠組みがだんだん取り除かれていきます。

まず第一に、事物相互の区別がはっきりしなくなってくる。

意識の表層しか活動していなかった間は、確固たるものとして現われていた事物がもの性を失って流動的になってきます。」

というのです。

そして、そこから更に

「ところが、三昧に入りますと、いままで硬く固まっていたこのものの世界が流動的になってくる。もののいわゆる本質がまぼろしのようにはかないものとなり、それらの本質の形成するものの輪郭がぼけてきます。

つまり花が花でありながら、花というものではなくなる。

鳥が鳥というものではなくなる。

こうしてすべてが透明になり、いわば互いにしみ透り、混じり合って渾然たる一体になってしまう。

そして意識の深化がもう一歩進みますと、それらすべてのものが錯綜し混じりあってできた全体が、ついにまったく内的に何もない完全な一になってしまう。

もうそこではかつてものであったものの痕跡すらありませんので、その意味で無であります。

そこではもはや、見るものも見られるものもありません。主体も客体もなく、意識も世界も完全に消えて、無を無として意識する意識もありません。」

ということになってきます。

こういう表現は、坐禅しているとまさに感じることであります。

それを井筒先生は、大乗仏教で説く「真如」「空」、禅で説く「無」であるというのであります。

片岡仁先生は、『禅と教育』の中で、

「絶対無になってみると、すべてのものがおのれと見えます。

すべてものを見るのに、ものに成り切ってしか見えないということです。

これは、ただの同情だとか感情移入だとかいうような心理的な作用とはまた違います。

感情移入というような心理学的な説明の仕方もあるでしょうけれども、その事柄それ自体は、そういう説明よりもっともとになるものです。

感情移入をする前に、われわれのこの絶対無の体験からみれば、ものと我とは本質的に繋がっているのです。

その繋がりが、実際は愛というものの根本です。

われわれの前に現われるものをすべて我として見るということは、すべてを愛することです。

自分が自分を愛するがごとく、自分以外のものが自分と同じように見えるということです。

他人が自分に見えて、自分を見るのにまた他人と同じように見える。

絶対公平に自他を見るということ、それが智慧であると同時にまた愛なのです。」

この自分だと思っていた輪郭がぼやけてきて、外の物と自分とつながっていることを体感するのである。

これが空の体験の入り口であります。

坐禅してあとに、庭に出て見ると、草や木が、自分と親しいもののように感じられることがあります。

草や木にまで声をかけてあげたくなるような気持ちになります。

草や木も、虫もみんなつながっていて、境目がなくなってくるのであります。

すべてがつながり合って、なんの境目もないのが空であります。

そうしますと、西田幾多郎先生が『善の研究』の中で、

「我々が花を愛するのは自分が花と一致するのである。

月を愛するのは月に一致するのである。

親が子となり子が親となりここに始めて親子の愛情が起こるのである。

親が子となるが故に子の一利一害は己の利害のように感ぜられ、子が親となるが故に親の一喜一憂は己の一喜一憂の如くに感ぜられるのである。

我々が自己の私を棄てて純客観的すなわち無私となればなるほど愛は大きくなり深くなる。 親子夫妻の愛より朋友の愛に進み、朋友の愛より人類の愛にすすむ。仏陀の愛は禽獣草木にまでも及んだのである。」

と説かれる通りなのです。

ここに説かれている仏陀の愛は禽獣草木にまで及ぶというのが、無縁の慈悲となるのであります。

空という真理をはっきりさせることによってこそ、慈悲があらわになってくるのであります。

そうでなければ、わがまま勝手な慈悲になりかねないのであります。


臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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