第748回「人物評価の色々」

今北洪川老師について、鈴木大拙先生は、「師は実に至誠の人であった。」と評しています。

至誠は、この上ない誠、誠実という意味であります。

初めてお目にかかった折の印象を、

「今覚えているのはいつかの朝、参禅というものをやったとき、老師は隠寮の妙香池に臨んでいる縁側で粗末な机に向かわれて簡素な椅子に腰掛けて今や朝餉をおあがりになるところであった。

それが簡素きわまるもの。

自ら土鍋のお粥をよそってお椀に移し、何か香のものでもあったか、それは覚えていないが、とにかく土鍋だけはあった。

そしていかにも無造作に、その机の向こう側にあった椅子を指して、それに坐れと言われた。

そのときの問答も、また今全く記憶せぬ。

ただ老師の風貌のいかにも飾り気無く、いかにも誠実そのもののようなのが、深くわが心に銘じたのである。」

と書かれています。

そして「虎頭巌(隠寮は妙香池の畔、虎頭巌の上にあって老樹で掩われている)で白衣の老僧が長方形の白木造りの机に向かって、夏の朝早く土鍋から手盛りのお粥を啜るー禅僧とはこんなものかと、そのとき受けた印象、深く胸底に潜んで、今に忘れられない。」

と書かれているのを見ると、いかにも清貧で孤高な禅僧の姿を思い浮かべます

しかし同じ人物であったても、その見る人によって評価が全く異なります。

かの勝海舟が『氷川清和』の中で

「今北洪川(鎌倉円覚寺管長、宗温)は、かつてその名を聞いていたから、一度訪問してみたが、あの人は、少し俗気がある。
近代の僧門ではどうしても(福田)行誡(浄土宗、増上寺、立誉)が一番だろうよ。」と書かれているのであります。

大拙居士は、至誠の人であったといい、勝海舟は少し俗気があるというのであります。

『明治大正人物月旦』という書物があります。

月旦というのは、後漢の許劭(きょしょう)がいとこの許靖とともに、毎月のはじめの日に郷里の人物を批評し合ったことから人物批評のことを言います。

その中に、今北洪川老師についての記述があります。

そこには、「今北洪川ー嬉しがらせの名人」と書かれています。

一部を引用しますと、

「鎌倉名物の随一になった円覚寺の洪川和尚、学問といふものより外に、人間に貴いものゝなかった時代。

立身出世は新知識が何よりの近か道なのだから、学校が大繁盛、それとは駈け違った参神弁道、エラがったのが不思議と蒼龍窟に拝趨した。

坐禅をしないと平凡に見えて、英雄豪傑らしくない、結跌趺坐でウンと息張り、妙な思ひ入れ宜しくあって、理屈ばなれのした一言半句、短いだけにボロが出ない、それを見真似に若い連中の山ッ気のある、ウヌ愡れの強いのが盛に鎌倉へ通った。」

と書かれていて、洪川老師が当時有名であったことが分かります。

また多くの人が洪川老師のもとに坐禅に通っていたことも分かるのです。

そこには、「若し此和尚が居なかったら、坐禅なんぞが流行物にはならなかったらう。」と書かれているのです。

そして最後には「どのお客へも必ず喜びさうなことを三つも四つも云ふ、思ひ切り嬉しがらせるのが滅法上手だった、又来たくなるやうに持ち掛けるので足が近くなる、実に抜け目のない和尚だった。」

と書かれているのであります。

この言葉を読むと、大拙居士が、はじめて洪川老師にお目にかかった折に、

「ただ一事あって記憶に残る。

それは老師が自分の生国を尋ねられて加賀の金沢だと答えたとき、老師は「北国のものは根気がよい」といわれた。」

という言葉もよく理解できるのです。

「北国のものは根気がよい」と、自分の生まれたところのことを褒められるとうれしいものです。

よし頑張ろうという気持ちになるものです。

それぞれの相手に応じながら、相手が喜びそうなことを仰っていたことがよく分かるのであります。

そこで『臨済録』にある言葉を思い浮かべました。

岩波文庫の『臨済録』にある入矢義高先生の現代語訳を引用します。

「わしのところでは、出家であろうと在家であろうと、どんな修行者が現れても、一目でその内実を見抜いてしまう。

たとえ彼がどんな境界から出てきても、彼が持ちだすお題目はすべて夢か幻にすぎない。

逆に境を使いこなす者こそが三世諸仏の奥義を体した人である。

仏の境界は自ら私は仏の境界ですなどとは言い得ない。

この無依の道人こそが境をあやつって立ち現れるのだ。

もしたれかがわしに仏を求めたならば、わしは清浄の境として現れる。

もし菩薩を求めたならば、わしは慈悲の境として現れる。

もし菩提を求めたならば、わしは清浄微妙の境として現れる。

もし涅槃を求めたならば、わしは寂静の境として現れる。

その境は千差万別であるが、こちらは同一人だ。

それだからこそ『相手に応じて形を現す 、あたかも水に映る月のごとし』というわけだ。」というものです。

水に映る月のように相手に応じて姿を現すのであります。

洪川老師もこの水に映る月のようだったと察します。

まじめ一途に道を求めてきた大拙青年には、至誠そのものとして対応されたのでしょう。

世間の荒波をくぐり抜けてきた海千山千の勝海舟に、そのように応対されたのでしょう。

洪川老師は、鏡のように至誠の人が来れば、至誠の人として現れ、俗人が来れば俗気のあるように現じたのだと思うのです。

至誠の人いうのは、大拙居士そのものであり、俗気があるのは勝海舟だったと思うのであります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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