第1414回「大山詣で」

イス坐禅をして、都会の会議室の中で、森の中にいるような体験をして、その翌日は、神奈川県の大山にお参りしてきました。

大山というのは、神奈川県の伊勢原市にある山であります。

『広辞苑』には、

「神奈川県中部にある山。

一名、雨降山(あめふりやま)。

頂上の大山阿夫利神社は雨乞いの神。

標高1252メートル。」

と解説されています。

千メートルを超える山ですが、登山道が整備されているので、安心して登ることができます。

修行僧達皆と一緒に登山してきたのでした。

まさに「大山詣で」であります。

「大山詣で」も『広辞苑』にある言葉です。

「夏、大山阿夫利神社に白衣振鈴の姿で講社連中が参詣する行事。

江戸中期、宝暦の頃より盛行。大山参り。石尊参り。」

と書かれています。

江戸時代のひとつの文化だったようです。

それで落語にもなっているのです。

落語の「大山詣り」は、『広辞苑』に、

「大山詣りの帰りに、酒でしくじって仲間に丸坊主にされた男が、仕返しする話。」と簡単に解説されています。

それほどまでに多くの人に親しまれてきたものであります。

仏教的にも信仰の深い山であります。

岩波書店の『仏教辞典』にも詳しく解説されています。

少し長いのですが、紹介します。

「丹沢山系の東南端に位置し、神奈川県厚木市・秦野市・伊勢原市にまたがる山岳信仰の山。

標高1252メートル。

別名を<阿夫利山(あふりやま)>ともいうが、これは「あめふり(雨降)山」の訛りで、かつて雨乞(あまごい)祈祷を行なっていた名残ともいう。

山頂に現在は阿夫利神社の御神体となっている、石尊大権現(せきそんだいごんげん)と呼ばれる自然石があり、これを依代(よりしろ)とした原始信仰から、次第に神仏習合の霊場として発展していった。

とくに近世には、江戸から近いこともあって<大山詣で>が盛んとなり、落語の題材ともなった。

中腹にある大山寺(だいさんじ)・(おおやまでら)は、明治維新の神仏分離まで一山を管理していた寺で、縁起によれば東大寺の造営に尽力した良弁(ろうべん)の開山と伝え、鎌倉時代の鉄造不動明王像を本尊としている。」

と解説されています。

雨乞いは、ひでりの時、降雨を神仏に祈ることです。

昔は雨が降らないと作物がとれないので、神仏に祈りを捧げたのでした。

今は雨が降るか降らないか、科学的にすぐ分かるようになったので、祈ることが少なくなってきています。

たしかにてるてる坊主などを目にすることは少なくなったように感じます。

てるてる坊主も『広辞苑』に解説されているものです。

「晴天を祈って、軒下などにかけておく紙製の人形。

晴天となれば、睛(ひとみ)をかきいれ神酒を供えた後、川に流す」というものです。

世の中が便利になると、祈る心も薄らぐのかもしれません。

しかし、大自然は今も時には人の想像を超えた災害をもたらすこともあります。

やはり敬虔な気持ちで祈ることは大事であります。

年に一度は、修行僧達と共に、この霊山に登って世の中が安穏でありますようにとお祈りしています。

修行僧たちにしてみれば、リクレーションのようなもので、楽しく登っています。

途中までは、ケーブルカーで登れるのですが、我々は下からずっと歩いて登ってきました。

このケーブルカーも便利で、途中の下社まで登ることができます。

昭和六年に開業されていますので、とても古いものなのです。

大山ケーブル駅で標高は約四百メートルです。

そして大山寺の駅で、五百十二メートル、終点の阿夫利神社駅で、標高六百七十八メートルであります。

大山阿夫利神社(下社)にすぐにお参りすることができます。

私たちは、下からてくてく歩いて登ってまず下社という、阿夫利神社にお参りします。

それから山頂を目指して歩いて登りました。

よく行者さんは、六根清浄と唱えたと言われています。

「六根清浄」は、『広辞苑』には、

①六根が福徳によって清らかになること。

②天台でいう六根清浄位。菩薩の位。六根互用。

③登山の行者、寒参りする者などの唱える語。

という解説があります。

ここでは三番の意味です。

六根とは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚器官をいいます。

『仏教辞典』には、もっと詳しく解説されています。

「<六根浄>ともいう。

<六根>は、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の六つをいう。

これは視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚という五つの感覚器官と、認識し思考する心とに当たり、この汚れがもろもろの煩悩を起こさせる源とされる。

六根清浄とは、この六つの汚れが除かれ心身ともに清らかになることをいう。

法華経法師功徳品において法華経信仰の功徳として説かれたのが由来。

日本には、登山の行者が金剛杖を手にもち、六根の不浄を浄めるために「六根清浄」と唱え念ずる風習がある。

また六根から生じる不浄を払い清めるための<六根清浄祓(はらえ)>といわれる詞があり、近世以後に流布した有名な六根清浄祓は、「天照皇太神の宣く」ではじまり「無上霊宝神道加持」という吉田神道流の詞で終わっている。」
とあります。

六根清浄祓には

目に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず

耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず

鼻に諸の不浄を嗅ぎて 心に諸の不浄を嗅がず

口に諸の不浄を言いて 心に諸の不浄を言わず

身に諸の不浄を触れて 心に諸の不浄を触れず 

意に諸の不浄を思ひて 心に諸の不浄を想はず

という言葉があります。

たしかに山に登ると、目に触れるもの、耳に聞こえるもの、皆我が心を清めてくれる思いがいたします。

声に出して唱えることはしませんでしたが、心地よい汗をかいて無事皆下山することができました。

また山に登ると、不思議とすれ違う方、出会う人ごとにお互いに挨拶をします。

これもまた気持ちのいいものです。

有り難い大山詣ででした。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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