第1130回「縄文の暮らし」

円覚寺の朝比奈宗源老師の言葉に

「鈴木大拙居士の夫人のヴィアトリスさんは、円覚寺の山内に電灯をひこうということになった時、山内に電気はいらんと、どなって歩いていた。」

というのがあります。

そんな時代があったのでしょう。

今や円覚寺でも電気は当たり前になっています。

先代の管長足立大進老師は、よく夜山内を歩くときには、懐中電灯をお持ちになっていました。

今は、山内にも街灯がついていて、私などは夜でも困ることはないのです。

しかし足立老師は、よく私に、「昔はなあ、山内なんて街灯がなかったから、真っ暗だったのだ。お月様でも出ていればまだ道が見えたけれども、お月様もないと、どこが溝だか分からずに怖いくらいだった」と仰せになっていました。

そんな時代の習慣が身についていて、夜には懐中電灯をお持ちになっていたのだと思ったものでした。

修行道場は今もガスを使わずに、薪でご飯を炊いたり、お風呂を沸かしたりしています。

井戸水を今も使っています。

今の時代には、こんな暮らしをするのは、かえって贅沢といえるのかもしれません。

ある方に薪でご飯を炊いているというと、それは贅沢な暮らしですねと言われて、そういうものかなと思ったものでした。

そんな修行道場でもやはり電気はあります。

電灯も使っています。

かつで東日本大震災のあと、しばらく計画停電というのがありました。

その時には、やはり夜電気がないと不便だと思ったものでした。

もっとも停電になってもお寺にはろうそくがたくさんありますので、灯りに困ることはありません。

そんなろうそくのあかりで暮らすのも時にはよいものだと思ったものです。

毎日新聞に、毎月「僧侶・陽人のユーチューバー巡礼」という連載記事があります。

新聞一面に大きく掲載されています。

一月の末の日曜日に掲載されていました。

今回は週末縄文人という方との対談であります。

はじめに、

「私たちは、便利な世の中に生きている。スマートフォンさえあれば地球の裏側にいる人とも瞬時にコミュニケーションを取れるし、ユーチューブが楽しめるのだって技術のおかげ。

そんな中、「現代の道具を使わず、自然にあるものだけでゼロから文明を築く」をコンセプトに活動している2人組ユーチューバーがいる。

縄(じょう)さん(32)と文(もん)さん(31)を名乗る「週末縄文人」だ。

僧侶ユーチューバーの小池陽人さん(37)と語り合ってもらうと、不便さの中に身を置いたからこそ得られた「豊かさ」が見えてきた。

と記者の方が書かれています。

不便さの中に身を置いたからこそ得られた「豊かさ」とは興味深い言葉です。

案外、豊かさというのは、「不便」の中にこそ感じれるものかもしれません。

「週末縄文人」というお二人がいらっしゃることは、小池さんのYouTubeで聞いていました。

それで興味をもって『週末の縄文人』という書籍も買いました。

新聞の記事にも、どうして月曜から金曜まで働いて、土日だけ縄文人の暮らしをするのか、

「生きることの土台から自分の手で作ってみて、縄文人がどういう目で世界を見ていたのかを知りたかったのです。」と書かれています。

更に「僕らがやっているのは、寒いから火をおこすとか、ご飯を食べるのに必要な土器を作るとか、すべて生きるために必要なことです。それを一つ一つ自分たちの手で作ることに、驚くほど充足感を感じます。」

と書かれています。

もともと人間は、ただ生きていたものです。

食べるものを自分たちで調達して、それを食べてあとは排泄して休むのというのが基本だったはずなのであります。

今は食べて寝るだけなら、何をしているのかと言われそうな世の中となっています。

複雑な仕事をして、いろんな生きがいもそこに感じるようになってきたのでした。

しかし、そうなると、記事には

「僕は、現代人のストレスは9割9分が人間関係だと思っています。

本当は自分でどうにかできるものではないのに、僕たちはどこかでコントロールできるように思ってしまい、それがストレスになる。

でも自然は本当にコントロールできません。

謙虚な気持ちにもなるし、自尊心が傷つくこともない。そこに悩みはありません。」

と書かれています。

複雑な人間関係に悩むのがお互いであります。

修行道場で修行していても、夏に暑いとか、冬に寒いとか、坐禅して足が痛いとかいうよりもやはり人間関係が一番の悩みとなっています。

自然を相手にしていれば、それこそ謙虚な気持ちになるものです。

「都市部にいながらでもできるような縄文活動って何かありますか」という小池さんの質問に、

「石器作りのための石磨きもおすすめです。

丸一日磨いても1、2ミリしか削れないのですが、時間をかけた分、不規則だった石が均整の取れた形になり、鏡のように輝くんです。

古代に重宝されていた「勾玉(まがたま)」は硬いヒスイとかで作ってあるのですが、あの形にするにはとんでもない時間を費やさないといけません。

昨今、コストパフォーマンスやタイムパフォーマンスが注目されていますが、それとは対極で、時間をかけたことが価値になっていた。それを追体験できます。」と答えられています。

更に記事の中で小池さんが、

「最近「不便益」という言葉を知りました。不便なことの中にこそ豊かさがあるという考え方で、大学で研究している先生もいます。お二人の活動にも通じますね。」と「不便益」を紹介してくれていました。

そんな縄文人の話を読んでいるとやはり『臨済録』にある言葉を思い起こします。

岩波文庫の『臨済録』の入矢義高先生の訳を引用させてもらいます。

「諸君、仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ。糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。愚人は笑うであろうが、智者ならそこが分かる。古人も、『自己の外に造作を施すのは、みんな愚か者である』と言っている。」

というものです。

「痾屎送尿、著衣喫飯、困じ来たらば即ち臥す」というものです。

大小便をして、服を着てご飯を食べて、疲れたら眠る、そこにこそ素晴らしい真理があふれているのです。

生きるという原点を学ぶことができます。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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