第962回「聖書に学ぶ」

円覚寺の釈宗演老師は、シカゴの万国宗教会議に出て帰国の後には、自ら聖書を学んでおられました。

また恩師の松原泰道先生からは、聖書を読むように薦められたことも思い起こします。

聖心女子大学の鈴木秀子先生から、新しく出版された『心がラクになる 新約聖書の教え』という本を送っていただきました。

これまた有り難いことであります。

鈴木秀子先生とは懇意にさせてもらっていて、円覚寺で講演していただいたこともございます。

致知出版社で対談したのは、コロナ禍の二〇二一年のことでした。

月刊『致知』二〇二一年一〇月号には、「釈迦とキリストの教え」と題して対談記事が掲載されました。

その中に鈴木先生がキリスト教に出会う機縁が語られています。

『致知』から鈴木先生の言葉を引用します。

「私は戦争中に育ちまして、中学一年生の時に戦争が終わったんですね。

すると、それまで天皇陛下のご真影に最敬礼しろ、日本が東洋を率いていかなくてはいけないと言っていた校長先生や教頭先生が戦争が終わった途端、「いまだに天皇陛下のご真影に向かってお辞儀をしている馬鹿者がいる」と。

同じ先生がそういう言葉を発したことに驚き、価値観が全く逆転してしまったことに大きなショックを受けました。

という体験をなされたのでした。

そこで鈴木先生は、

「大事にしていたものを全部否定され、心が空洞みたいになって、いままで大事にしていた価値あるものに替わるものは何かと考えても見つからなかったんです。

永遠に変わらない価値あるものがあるのではないかとの思いから大学へと進みました。」

と語られています。

かつて鈴木先生から頂戴した『臨死体験 生命の響き』には次のように書かれています。

「そんな精神状態でしたから、 聖心女子大学に入ったときには、まったく違った価値観の世界に投げこまれたような新鮮な驚きを感じました。

混乱し、生きる指針を見つけられないでいた私は、いつもにこやかで穏やかなシスターたちの姿に惹かれました」

というのです。

「彼女たちは、戦争があろうとなかろうと、勝とうと負けようと、信仰をつらぬき、神に仕える喜びの中に生きていたのです。」

というシスター達の姿に感動されたのでした。

聖心に入学して親しくなったという曾野綾子さんは、幼稚園から聖心に通っておられたので、戦時中の聖心の様子もご存じで、鈴木先生に、

「戦争中でも、終戦後でも、私が聖心で受けた教育は変わらなかった。

戦争があろうがなかろうが、人間として大事にすべきものは徹底して教えられた」
と語ってくれたと言います。

「戦時中は、軍隊が突然学校にやってきて教務訓練をしたそうです。

彼らは、世界を一つの国家に統一するという「八紘一宇」のスローガンを説き、 「鬼畜米英」「敵国を憎め」と教えこもうとしました。

また、 「キリストなんていない」と、いつもシスターが教えていることとは正反対のことを教えようとします。

そのあいだ、シスターたちは黙ってそれを聞いています。

そして、軍隊が帰っていったあと、彼らが言ったことにはいっさい触れず、自分たちが信じていることだけを静かに話しはじめるのです。」

というように淡々としながら信仰は微動だにしないのです。

鈴木先生は臨死体験をなさっていて、私も直接そのお話をうかがいましたし、そのことを詳しく書かれた『臨死体験 生命の響き』という著書もいただいています。

今回いただいた『心がラクになる 新約聖書の教え』にも臨死体験のことが簡潔に書かれています。

引用します。

「わたしはあるとき、友人のいる修道院に泊めてもらいました。

真夜中に起きだしたわたしは、階段を廊下と思い違いし、二階から下まで落ちてしまったのです。

五時間近く意識不明の状態でした。

意識がない間、わたしは上から自分を見下ろしていました。

わたしの足元から蓮の花びらのようなものが一枚一枚、剝がれ落ちていきます。

そのたびに、「ああ、これで人の目を気にすることがなくなった」

「これで人を恐れることがなくなった」と自由を実感しているのです。」

という不思議な体験です。

そして更に、

「残り一枚のとき、すっと天空に飛翔し、光がわたしを包み込みました。

輝く金色の光に包まれ、一つに調和していくのを感じました。

光は生命そのもので、わたしの全存在を温かい光で包みます。

自分の命が、自分の全存在が、完全な生命そのものによって満たされるのを感じました。

光は、わたしのすべてを知り尽くし、わたしのすべてを理解し、赦し、わたしをあるがままに受け入れてくれました。

わたしは深い一体感に包まれました。

これこそ愛なのだと理解しました。

そのとき「癒やしてください。 癒やしてください」というだれかの祈りが聞こえてきました。

すると光がわたしにこの世に帰るように促しました。

そして「この世でもっとも大切なことは、愛することと、知ることである」と教えました。

わたしははっきり理解したのです。

この世で、「愛する」ことと「知る」ことだけが生きる意味なのだと。 」

という話なのです。

愛することは仏教でいう慈悲ですし、知ることは智慧に当たります。

仏教は実に智慧と慈悲の教えなのです。

ですから、生きることは知ることと愛することだと、私もこの鈴木先生の教えから、説くようになりました。

本書には、「寝たきりになっても体が動かないことにも価値はあります」というページがございます。

そこには、病気のために施設で寝たきりになっている三十代の青年の話が出ています。

その方のもとに、中学時代の友だちが暗い顔で訪れたというのです。

その友だちは、今日、死のうと思って、死ぬ前にだれかに会ってみようと思ったらしいのですが、みんな忙しそうで会えません。

そこでその寝たきりの青年だけは、ここにいると分って訪ねてきたのでした。

そして青年に告げました。

「おまえは動けず、苦しい思いをして生き続けているのに、おれはまだ動ける。

だから、死ぬのはやめた。まったくおまえのおかげだよ。ありがとう」

と告げたのでした。

そのときその青年は、

「寝てるのもけっこういいんじゃないか」と自分を受け入れたという話です。

それからも次から次へと、いろんな人が訪れ、青年と話し、明るく晴れやかな顔で帰っていったというのです。

「自分はここに動かずいて、みんながほっとする時間がもてるように聴き手になればいいのだ。それが自分の使命なのだとわかった」

と書かれています。

こういう心境になるのは容易ではありません。

しかし、人間はどんな状態になろうが、そこに生きる意味は必ずあると教えてくれています。

鈴木先生のさまざまな体験と出会いが説かれた聖書の教えであります。 
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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