第1092回「ラッキョウの皮むき」

養老孟司先生の『バカの壁』に、こんな言葉があります。

引用します。

「…若い人への教育現場において、おまえの個性を伸ばせなんて馬鹿なことは言わない方がいい。

それよりも親の気持ちが分かるか、友達の気持ちが分かるか、ホームレスの気持ちが分かるかというふうに話を持っていくほうが、余程まともな教育じゃないか。

そこが今の教育は逆立ちしていると思っています。

だから、どこが個性なんだ、と私はいつも言う。

おまえらの個性なんてラッキョウの皮むきじゃないか、と。」

という言葉です。

ラッキョウの皮むきという表現がおもしろいものです。

かの太宰治の『秋風記』にも、

「らっきょうの皮を、むいてむいて、しんまでむいて、何もない。きっとある、何かある、それを信じて、また、べつの、らっきょうの皮を、むいて、むいて、何もない」という言葉があります。

これは、らっきょうの皮は、むいてもむいても皮ばかりであるところから、実がないのにくり返すたとえに使われています。

これこそという芯があるわけではないのです。

本日一月三日、大般若経の転読も本日終了となります。

「転読」というのはどういうことかというと、岩波書店の『仏教辞典』には、

「転読」とは「<転経>また<略読>ともいう。

最初から最後まで読む<真読>(信読)に対して、経題と経の一部分だけを読んで全巻の読誦に代えること。」をいうのであります。

更に「国家安泰・五穀豊穣・病気平癒などを祈って大般若経600巻などを読誦することは、日本ではすでに奈良時代から行われていたが、次第に儀礼化した略読が主となり、折本(おりほん)を空中で翻転する華やかな形式となった。」

と書かれています。

それは「今日でも天台・真言・禅宗その他で広く修されている」ということなのです。

ここにありますように「折本を空中で翻転する華やかな形式」となっているのであります。

それでも六百巻を一巻ずつパラパラ転読するのは時間もかかります。

転読する間、偈文を唱えながら、読んだことにしています。

それで読んだのと同じ功徳があるとされています。

その間に唱える偈文が、大般若経で説かれている教えの真髄と言われています。

諸法皆是因縁生
因縁生故無自性
無自性故無去来
無去来故無所得
無所得故畢竟空
畢竟空故是名般若波羅蜜

という偈文です。

あらゆるものはみな因縁によって生じるものだということです。

因縁とは、まず『広辞苑』には、

「〔仏〕ものごとの生ずる原因。因は直接的原因、縁は間接的条件。また、因と縁から結果(果)が生ずること。縁起。転じて、定められた運命。」と書かれています。

更に岩波書店の『仏教辞典』によれば、「因縁は仏教思想の核心を示す語である。

<因>と<縁>は、原始経典ではともに<原因>を意味する語であったが、のちに因を直接原因、縁を間接原因、あるいは因を原因、縁を条件とみなす見解が生じた。」

と解説されています。

因縁によって生じるのですから、自性がないというのです。

自性というのが難しいものですが、『広辞苑』には、

「物それ自体の本性。本来の性質」とあります。

この「自性」を岩波の仏教辞典で調べてみますと、興味深いことがわかりました。

今まで使っていた第二版の『仏教辞典』と、この度新たに出された第三版の『仏教辞典」では記述が異なっています。

第二版には、「自性」は、

「もの・ことが常に同一性と固有性とを保ち続け、それ自身で存在するという本体、もしくは独立し孤立している実体を、<自性>という。」

と解説されています。

第三版でははじめに「物事の不変の本質、他に依存せずにそれ自体に内属する本性」と解説されています。

そのあとに「部派のうち最大の説一切有部は、もの・ことや心理作用のいっさいを、諸要素ともいうべき法(ほう)(dharma)に分かち、通常は七十五法(五位七十五法)を掲げて、そのおのおのにそれぞれの自性を説く。

これを厳しく批判しつつ大乗仏教が興り、特に竜樹(ナーガールジュナ)は、相依(そうえ)(相互依存関係)に基づく縁起(えんぎ)説によって、実体と実体的な考えを根底から覆し、自性の否定である<無自性>を鮮明にして、それを<空(くう)>に結びつけた。」
と解説されています。

このあたりは第三版も同じであります。

「無自性」とは「固有の本質(自性)をもたないこと」であります。

「すべての事物は、他のさまざまな事物や構成要素に依存しており、それゆえ固有の本質を欠いているという意味」なのです。

さらに『仏教辞典』には、

「竜樹は『中論』第15章において「自性は他に関係せず、作られない」と定義づけ、これにより、自性を欠いていることを意味する空と無自性とは同義であるという。

この定義によれば、他に関係するものはすべて無自性であり、それゆえまた、他の事物に縁って生起することをさす縁起(えんぎ)は、必然的に空=無自性を含意するという。」

ということになるのであります。

『仏教辞典』には、「竜樹ー空=無自性縁起説」という項目があって、

「初期の般若経で説かれた<空>を理論的に大成したのが竜樹(ナーガールジュナ)である。

かれはまず、<空>こそがゴータマ‐ブッダ(釈迦)の悟りの内容にほかならないことを二諦(にたい)説や八不(はっぷ)(八不中道)の縁起説との関連で明らかにしようと努めた。

第二にまた、<空>の意味内容を論じ、<空>は無に等しいのではなく、すべての事物が無自性にして縁起することを意味すると説いた。」

と説かれています。

空とは何もないことではなく、ものごとは相互依存関係にあることを表しているのです。

これを個性というものにあてはめてみると、その人自体の不変の個性があるのではなく、さまざまな原因や条件によって成り立っていると言えます。

だから養老先生は、「個性なんてラッキョウの皮むき」と仰ったのでしょう。

相互依存の関係にあるのですから、「おまえの個性を伸ばせなんて馬鹿なことは言わない方がいい」ということになって、

「それよりも親の気持ちが分かるか、友達の気持ちが分かるか、ホームレスの気持ちが分かるかというふうに話を持っていくほうが、余程まともな教育じゃないか。」と仰るのは道理なのであります。

諸法は、ラッキョウの皮むきなのであります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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