第1302回「禅ー人と人の間にある宗教」

落語に三題噺というのがあります。

「三題噺」とは「落語の一種。客から任意に三つの題を出させ、これを即座におもしろおかしく綴り合わせて、一席の落語とするもの」と『広辞苑』には解説されています。

よく知られている演目である「芝浜」が三題噺と言われます。

客から「酔漢」と「財布」と「芝浜」という三つの題を出されて、三遊亭圓朝が即興で作ったといわれています。

鰍沢などもまた三遊亭圓朝による三題噺と言われます。

先日駒澤大学の小川隆先生にお越しいただいて、私たち修行僧に講義をしてもらいました。

「禅宗の特徴」と題して「系譜・清規・問答」についてご講義してくださいました。

小川先生は、謙遜なされて、「いつもの三題噺ですが」と仰っていました。

たしかに、「系譜、清規、問答」という三つをもとにお話くださることから、三題噺と謙遜されるのであります。

しかし、三題噺は、なんの脈絡もない三つの話題を即興でつなぎ合わせるものですが、小川先生の」系譜、清規、問答」の三つは、多年禅の語録を読み込まれてきた先生が、禅宗の特徴として三つに要約されたものなので、根本的に異なるものです。

先生が、「いつもと同じ三題噺で」とご謙遜されますが、毎回特別に資料を用意してくださいますし、聞く方はまた聞くたびごとに気がつくことがあるものです。

その日はとても暑い日だったので、円覚寺は北鎌倉の駅から歩いてすぐなのですが、そのわずかの距離でも汗をかいてたいへんだろうと思って、駅まで迎えの車を用意しようとしました。

そうしましたら、なんと小川先生は、ご講義の前に、東慶寺のお墓参りにゆかれていたのでした。

東慶寺には鈴木大拙先生や釈宗演老師のお墓がありますので、先生はよくお参りになっています。

ただこの暑さの中でお参りとは恐れ入ったのでした。

寺の控え室に着いた先生にご挨拶すると、汗びっしょりでいらっしゃいました。

暑い中を恐れ入りますと申し上げますと、お寺の中は風が涼しくていいですねと仰って下さいました。

こちらは寺の中にいても暑いと思っているのに恐縮でありました。

さて、そうしてお茶を召し上がっていただいていると、時間となってご講義が始まりました。

まず先生は「禅は坐禅の宗教か?」と疑問を呈されます。

禅宗というと坐禅する宗派と思われることが多いのですが、坐禅は禅宗だけのものではありません。

今回先生は、建長寺の開山大覚禅師の遺誡を引用されました。

遺誡の第一条が「松源一派に僧堂の規有り、専ら坐禅せんことを要す。其の余は何をか言わん? 千古も廃す可からず。之〔坐禅〕を廃すれば則ち禅林何くにか在らん? 宜しく守行すべし。」となっています。

僧堂の規則では専ら坐禅を要すというのです。

しかし、仏教では、戒定慧の三学にも禅定という坐禅があり、八正道にも正定という坐禅の修行が入っています。

禅宗だけが坐禅するのではないのです。

また夢窓国師の『夢中問答』からも、「坐禪修行と申すことは、禪門ばかりに用ひることにあらず。顯密の諸宗にも明かせり。」

という言葉を紹介してくださいました。

では禅とはどんな教えなのかというと、「系譜、清規、問答」の三つを貫くのは、馬祖禅師の説かれた「即心是仏」という教えなのです。

馬祖禅師は、「汝ら諸人、各おの信ぜよ、自らの心是れ仏、此の心即ち是れ仏なり」と示されました。

自分の心が仏であること、この心がそのまま仏であることを、「即心是仏」といいます。

ほかでもない生き身の自らの心こそが仏であるという教えなのです。

しかし、この教えはそれまでの伝統的な仏教からみればとんでもない教えでもありました。

仏になるのに三大阿僧祇劫という膨大な時間をかけて、仏になろうと努力している者からすれば、心がそのまま仏であるというのは、肯えるものではありませんでした。

そこで、伝統の修行をしている僧からすれば禅は「魔子」と呼ばれていたのでした。

仏になるのではなく、仏であると説くのが禅の教えなのです。

その教えを代々受け継いできているのです。

禅は「教祖と聖典なき宗教」だと先生はよく仰せになっていますが、この伝統の系譜を重んじるのです。

釈宗演老師の『禅海一瀾講話』から次の言葉を引用されていました。

「我らが法は、仏から仏へと手ずから授け、祖師から祖師へと代々相伝してきたものでございます。師からの伝授に依らねば、虚しく設けられたものに過ぎません。」というのです。

このような系譜を重んじるのは、禅が興った当初よりあった中国の伝統的な考えであったようです。

小川先生のご著書『中国禅宗史』にある、

「いにしえの禅者たちが信じたのは、特定の教祖でも聖典でもなく、無限に延び拡がるこの「伝灯」の系譜の総体であった。この系譜のうちの誰か一人の師から「印可(いんか)」を受けて法をつぐことは、そのままこの系譜の全体に繋がり、自らもこの「想像の共同体」の一員となることを意味した。」

という言葉はよく分かるものです。

そうしてもう一つの特徴である清規について触れられました。

禅寺では勤労を尊びます。

畑を耕して暮らすことは美徳とされています。

しかし、元来の仏教では土を耕すことも、草木を伐採することも禁じられていたのでした。

それを敢て行い、「作務」として積極的な意味を見出していったところにも禅の大きな特徴があります。

日常を如法に行うことこそが修行となったのです。

それ以外に特別伝えるものもないのが禅の特徴です。

今も修行道場の暮らしは、昔ながらの日常の暮らしを行っているだけです。

ただ現代社会が便利になっているので、たいへんだと感じるだけのことです。

そんな禅僧たちの規律正しい暮らしが、のちに三代の礼楽は緇衣の中にありと賞嘆されるようになっていったのでした。

それから最後には問答についてでした。

問答は、本来仏である、仏の本質がすでに具わっていることを目覚めさせるためのものであります。

唐の時代の問答は偶発的であり、一過性のものであり、再生不可能なものです。

それが宋代になると、昔の有名な問答の言葉を公案として修行者に課すようになってゆきました。

「看話禅」と呼ばれるもので、それは「特定の「公案」に全意識を集中することによって意識を臨界点まで追い詰め、そこで意識の爆発をおこし、言語・論理を超えた劇的な「大悟」の体験を得させようとする」ものなのです。

これは小川先生の『臨済録のことばー禅の語録を読む』からの引用です。

最後に禅の特徴として人と人との間にある宗教だということを説いてくださいました。

系譜も一人では成り立ちませんし、清規も一人で行うものではありませんし、問答も相手があってこそです。

自分一人で悟って人に教えを説くことをしない辟支仏よりも、人に教えを伝えようとする禅僧が尊いのだという、馬祖の問答を示してくれていました。

己事究明といっても自分一人で行うのではなく、老師と弟子との問答、関係によって成り立つものなのです。

今回も二時間があっというの間のご講義で、今まで疑問に思っていたことが整理されました。

禅の世界の中にいると、それがどんな教えか分からなくなるもので、こうして整理していただくと、自分がどんな教えを学んで、仏教の中でどんな位置にあるのかが分かるのです。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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