第1218回「達磨の毒殺」

達磨大師は禅宗の初祖として崇められています。

しかし、そのご生涯については分からないことが多いのです。

南インドの香至王の第三王子であったと言い伝えられています。

香至王は、お釈迦様から二十七代目の教えを受け継いでいると尊崇されていた般若多羅尊者に帰依していました。

香至王は般若多羅尊者に高価な宝珠を施されました。

般若多羅尊者は香至王の三人の王子に質問しました。

「この宝珠に匹敵する宝は、他にあるであろうか」と。

第一王子の月浄多羅も第二王子の功徳多羅も、

「この宝珠は、七種の宝の中で最高のものです。尊者こそこの宝珠を受けるに相応しいお方です」と答えます。

後の達磨である第三王子の菩提多羅だけは、

「これは世間的な宝にすぎません。

もろもろの宝のなかで最高のものは法の宝です。

この宝玉の光は世間的な光にすぎません。

もろもろの光のなかで最高のものは智慧の光です」
と答えました。

般若多羅尊者は、菩提多羅のすぐれた智慧と弁舌に驚きました。

この子こそ、お釈迦様の正法を受け継ぐに相応しい人物だと思ったのですが、まだ時期が至らないとおもってそのままにしておいたのでした。

香至王が亡くなって、多くの者が嘆き悲しむ中、菩提多羅のみは、棺の前で禅定に入り、七日して出家をしたのでした。

般若多羅尊者について修行しました。

般若多羅尊者は、自分の死後六十七年後に中国に渡って法を説くようにと言い残されました。

『碧巌録』には、次のように書かれています。

一部を、岩波書店の『現代語訳 碧巌録』から引用します。

「達磨はわが中国に大乗の教えにふさわしい人のいることを遥かに見てとり、そこで海を渡り、てくてくとやって来て、彼は仏陀の精神を純粋に相続し、三界六道で迷っている者に教えを説いた」のでした。

梁の武帝にまみえます。

「武帝はかつて袈裟を身にまとい、自ら『放光般若経』を講じたが、感応して天花が降りそそぎ、地は黄金に変じた。

(武帝は)仏道を実践し、仏を信奉し、天下に詔勅を発して寺を建て出家を許し、仏の教えに従って修行させた。人々は仏心天子と呼んだ。

達磨が最初に武帝と会うや、武帝はこう尋ねた、

「朕は寺を建て、出家を許した。どのような功徳があるだろうか」。

達磨は答えた、「功徳はない」。

武帝は婁約法師・傅大士・昭明太子と真俗二諦について議論している。仏の教説によれば、「真諦は非有を明らかにし、俗諦は非無を明らかにする」とある。真諦と俗諦とは別のものではない。これこそ聖諦第一義なのである。

これは経論を重視する人たちの最高に奥深く玄妙なところである。そこで武帝はこの究極のところをもち出して達磨に問うたのである。

「聖諦第一義とは何か」。

達磨は言う、「廓然無聖」。」

「廓然」はあけっぱなしのさまをいいます。

からりとして「聖」という絶対価値さえ消えた世界を示したのでした。

「帝はさとれず、自我に執着する見解をもっていたために、再び問うた、

「朕と向い合っているのは誰か」。

達磨は甚だ慈悲深くて、また言ってやった、「識らぬ」。

そのあげく、武帝は眼をきょろきょろさせたまま、どこが勘どころなのか、一体どういう答えなのかわからなかった」のでした。

「そこで、(達磨は)そっと国を出た。このおやじ、恥じるほかなく、揚子江を渡って魏へと来た。

当時、魏の孝明帝が位にあった。北方の民族で拓跋氏を姓としていたが、後に中国と名乗った。

達磨はそこに来たが、(帝に)会おうともしなかった。まっすぐ少林寺へ行って、九年間面壁し、二祖を化導した」のでした。

「その時、後魏 (北魏) の光統律師と菩提流支三蔵は師(達磨)と議論した。

師は外形を排して、ずばり心を指し示したが、(彼らは)狭量だったので、相手となりえなかった。

競ってつぎつぎに殺意を懐き、何度も毒薬を飲ませた。

六度目には教化の因縁も尽きて、法を伝えるのにも適当な人を得たので、もはや助かろうともせず、端坐したまま逝去した。

熊耳山定林寺に葬られた。

後魏の宋雲は(インドに)使者として発ったが、葱嶺で師が履を片方ぶらさげて往くのに遇った」のであります。

達磨大師のことを禅の語録では「欠歯の老胡」と表現されることがあります。

歯が欠けていたことを表わしています。

無著道忠禅師は「仏教学者と議論し、激昂した学者が如意(講義をする僧が持つ棒状の物)を擲って、達磨の前歯に当たって歯が折れた」と説かれています。

『碧巌録種電抄』六十七則には、
「達磨、毒に中たって当面の歯を欠く」とあって、「毒薬の作用によって歯が抜け落ちてしまった」と述べています。

いずれにしてもたいへんな目に遭っていたことが分かります。

達磨大師は、二入四行の中で第一に報怨行を説かれています。

それは「報怨行とはどんなのかと云うに、それは、道を修行して居る人の身の上に、何か苦厄が出来たとせんに、その人はこう考えなくてはならぬ。

自分は過去無量劫に渉りて、本を棄てて末に走って居た。

而して色々の世界を流浪して来て、他をして自分に対して怨憎の心を抱かしめた、その心を違害したことが限りなくあった。

この一生では別に罪業を犯すようなことをしないにしても、自分の過去の罪業に対しての果報は、今や成熟し来たって、この身に加わりつつある。

これは天からのわざでもない、また人間が加えるのでもない。

誰も知らぬのである。

それで自分は何等不平の心を持たないで忍受しなければならぬ。誰をも恨むべきでない。」(鈴木大拙『禅の思想』より)

というのであります。

達磨大師ご自身が身に降りかかる災難をそのように受けとめていたと改めて思ったのでした。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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