第1253回「戒の本質」

『最後のサムライ 山岡鉄舟』にこんな話があります。

「雲照律師がある時、鐵舟と夫人を目白の自坊に招待し、まず鐵舟に向かって「今日は先生にも十善戒をお授け申したい」と言った。

すると鐵舟は「いったい貴師は形のないものに向かって、どう十善戒をお授けになるのか」と問うた。

しかし、律師は一言半句もなかったので、鐵舟はむっとして帰ってしまった。」

という話です。

十善戒とは「不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不貪欲・不瞋恚・不邪見」の十善を保つための戒です。

雲照律師のことは、『広辞苑』にも載っています。

「真言宗の僧。姓は渡辺。出雲生れ。

廃仏毀釈の際は仏教の復興に努め、真言宗の統一をはかり、真言律の復興を唱えた。

東京に目白僧園を、那須野に雲照寺を建立。(1827~1909)」

と書かれています。

江戸時代には、慈雲尊者(1718~1804)がいらっしゃって、戒律の復興に努め、在家者のために十善の法を説いたことで知られています。

雲照律師もまた十善戒を広く説かれていたのでした。

山岡鉄舟が、それでは雲照律師や十善戒を否定していたのかというと決してそうではなく、『最後のサムライ 山岡鉄舟』にはこんなことも書かれています。

「ある時、今大路道斎が鐵舟に「先生の奥様やお子様方は皆、さぞ禅がおできになることでしょう」と言うと、

鐵舟の答えは「いや、わたしの妻子はいずれも不肖の身で禅をやらせる器ではないから、以前より雲照律師に帰依させています」というものであった。」

というのであります。

一見して矛盾しているように思われるかもしれませんが、更にこう書かれています。

「そこで今大路が「禅は男女も賢愚も関係のないものと承っていますが」と

疑問を呈すると、鐵舟は「それはその通りである。そもそも禅は根気仕事だから、

根気さえあれば男女賢愚にかかわらずできるものなのだが、もし根気がなかったら男女賢愚にかかわらず駄目である。

根気のない者に禅をやらせるのは、例えば自分のような胃病の者に牛肉を丸呑みさせるようなもので、一般に害はあっても益はない。

だからこそ古人も『禅は大丈夫の事なり』と言っているのである。

人々すべてにこの大丈夫の根気があれば、仏教は禅の一法で事足りるだろうが、そうはいかないから種々の法門が設けてあるのだ」と答えた。」

というのであります。

これもまた鉄舟居士の炯眼というべきであります。

禅の勝れていることは、私も思っていますが、しかし、誰にでも合うかというと、必ずしもそうではありません。

胃腸の弱い者に、牛肉を丸呑みさせるようなものとは、言い得て妙なのです。

胃腸の弱い人には、弱い人なりに、お粥などを召し上がるのがよろしいのです。

誰にでもきくというのではないのです。

石頭禅師の法嗣のひとりである長髭和尚に師事した石室善道和尚の話があります。

受戒は二十歳になってからなのですが、この方はそれより前に受戒しています。

小川隆先生の『禅僧たちの生涯』(春秋社)にある、『祖堂集』からの現代語訳を引用します。

「長髭和尚は一人の男児をひきとり、それを養って八年が過ぎた。ある日、男児はかしこまって長髭和尚に申し上げた。

「それがし、“受戒〟にまいりたく存じますが、よろしいでしょうか?」

和尚、「受戒して何を求める?」

「はい、それがしの祖父が南岳におります。挨拶にまいりたく存じますが、ただ、いまだ受戒もしておらず、会わせる顔がございません」

和尚、「受戒は二十歳にならねばできぬもの、今しばらく待て」
だが、長髭和尚は突如ハッと思いあたり、男児を呼んで受戒を許した。」

という話であります。

後にこの石室和尚は、石頭禅師にも参じて戒は決して他より受けるものではないことに気づかれました。

石頭和尚には、こんな話があります。

こちらも『禅僧たちの生涯』から小川先生の現代語訳を参照します。

「当時、六祖が真の教えを挙揚していた。先祖代々の田畑が六祖のいた新州(広東省・新興市)に隣接していた縁で、石頭は六祖に礼拝に赴いた。六祖は見るなりたいそう悦び、しきりに頭を撫でながら言った。

「そなたは、わが真の法をつぐことになろう!」

そしてご馳走を用意して「出家」を勧め、かくて石頭は、髪を落として世俗を離れた。
のち開元十六年(七二八)羅浮山で「具戒」し、ひととおり律を学んだが、良し悪しの定めが入り乱れているのを見、やがてこう言った、

「己れの本性が清浄であることこそが戒体。諸仏は因縁によって組成されたものでないから、そこには何も生じない」。

これ以後、細かな規則にこだわらず、文字の教えを尊ぶこともしなくなったのであった。」

という話です。

小川先生は。

「しかし石頭は「戒体」は外から授かるものではなく、清浄なる自己の本性・仏性こそがもともと我が身に具わっている真の「戒体」にほかならない、因縁の組成物でない仏性には如何なる善悪も生じない(語は『金光明経』巻1 「諸仏無作者、亦復本無生」に基づく)、そう確信し、律の細則にこだわらず、文字で書かれた教えも尊ばなくなったのでした。」

と解説されています。

禅の立場から言えば本来清浄なる自己の本性に目覚めることが大切で、戒を外から授かる必要などないことになります。

しかし、その禅の教えが誰にでも通じるかというと決してそうではなく、やはり十善戒などを、尊敬する師から授かって生きる道もあるということなのであります。

いつも布薩を行っているのですが、礼拝を繰り返して戒を読み上げることも、自己の本性・仏性こそがもともと我が身に具わっている真の「戒体」にほかならないと気がつくのが目的なのであります。

そして坐禅もまたもともと我が身に具わっている自己の仏性に目覚めることが本質なのであります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?