第649回「仏心とは慈悲心」

『中外日報』という宗教界の新聞があります。

その十月五日の紙面に、並木泰淳さんが「私の法話」という欄に、短い法話を書いてくださっていました。

並木さんは、臨済宗妙心寺派の布教師であり、東京禅センターの主任でもいらっしゃいます。

もう何年も前に、一緒に法話をさせてもらったこともあり、とても明るくリズムの良い法話だったことを覚えています。

この頃は、いろいろとこの並木さんにお世話になっています。

その並木さんが『中外日報』に書かれていた法話がよかったのです。

その内容をご紹介させてもらいます。

並木さんが、法事のためにとある電車に乗っていた時の話です。

赤ちゃんの笑い声が聞こえて、並木さんが読んでいた本から目をそらすと、お父さんが支えるベビーカーに二歳くらいの男の子が寝ていて、お母さんの胸元で赤ちゃんが笑顔を振りまいていたというのです。

読んでいる者も想像しただけで微笑ましい光景であります。

ところが数分後に、その男の子の大きな泣き声が響いたそうです。

そして泣き続けたあげく、むせ込んで車内に吐いてしまったのでした。

慌てたお父さんがトートバッグからティッシュか何か探そうとしたようですが見つからず、お母さんも寝ている赤ちゃんを抱いているので、思うように男の子に近づけないのでした。

並木さんがティッシュを出して手渡そうとすると、想像もしなかった光景が目の前に広がったというのです。

それは四方八方の人たちからティッシュやタオルが差し出されたというのであります。

並木さんは、お酒に酔った人が缶ビールをこぼしても、学生が戯れあってアイスクリームを落としても同じようにはならなかっただろうと書いています。

並木さんは、誰もが愛情豊かに一生懸命子育てしていた夫婦が困り果てた姿を目の当たりにしたら、思わず手を差しのべるのであり、これが仏心の表れの一端だと書かれています。

そしてその仏心というのは、親に躾られるものでも、学校で教わるものでもなく、生きとし生けるものが普遍的に具えるものだと書かれていました。

そしてその仏心を自らのなかに見出して鮮やかに生きるのが臨済禅の教えだと説かれていました。

仏心については、智慧と慈悲だと書かれています。

仏心は大慈悲心だとも申します。

惻隠の情という言葉があります。

「人をいたわしく思う心。あわれみの気持」です。

『孟子』に

「人皆な人に忍びざるの心有りと謂う所以は、今、人乍(にわか)に孺子の将に井に入らんとするを見れば、皆な怵惕惻隠の心有り。」

という言葉があります。

人には、誰しも人の難儀を見過ごしにできない心があります。

孟子は、それはなぜかというと、かりに突然幼児が井戸に落ちようとするのをみれば、誰でもはっと驚き深く哀れむ心持ちが起こって助けようとするのです。

孟子は、それは、子供を救ったのを手づるに、その両親に交際をもとめようとするからでもなく、村人や友人にほめてもらおうとするからでもなく、見殺しにしたら悪口を言われて困るというので救うのではないと言います。

利害得失を考えてするのではなく、とっさに自然とそうするのだというのです。

こういう心が仏心であります。

並木さんの法話を読んで、いい話だなと思っていたところ、東北から新米が届きました。

毎年新米を送ってくださる方であります。

ご自身田んぼでお作りになったお米なのであります。

この方とはもう十年以上のご縁になります。

初めて円覚寺の坐禅会にお見えになって以来であります。

この方は、ご自身のご子息が二十歳の時に、事故で脊髄を損傷し首から下が動かなくなってしまったのでした。

脊髄損傷です。一瞬の事故で生涯首から下は動かなくなったのです。

坐禅会で多くの方が、足が痛かったという感想を述べておられたのを聞かれて、ぽつりと「足が痛いのは幸せです、私の息子は痛いとも感じないのです」と仰ったのが印象的でした。

無常といえばこれほど無常なことはありません。

親も子も自殺も考えたそうです。

でも子供は首から下が動きませんので自分で死ぬこともできません。

それでもどん底から立ち直って生きています。

ある時にこのお母さんが私にこんなことを語ってくれました。

「あの子が転んでも私は絶対に手を出しません。

あの子には一人で生きる力を身につけて欲しいからです」というのでした。

これも親の愛情だと思いました。

出来ることなら、手を差し伸べたいのでしょうけれども、やがて親の方が早く亡くなるのが常でありますから、独り立ちできるようにと手を貸さずに見ているというのです。

手を差し伸べるのも慈悲であれば、手を出さずに見ているのもまた慈悲であります。

このお母さんがお米を作っておられて、毎年新米を送ってくださるのです。

近年コロナ禍となってお目にかかることがなくなっていましたが、この方はいつお目にかかってもとにかく明るいのです。

ある時にこう言われたことが忘れられません。

「辛いことは沢山ありました、でも、私は明るく生きてゆくの。

でないと、もし私が暗くしずんでいたら、あの子は自分の事故のせいで母親が苦しんでいると自分を責めてしまう。

だからね、私があの子にしてあげられることは明るく生きてゆくこと、これだけなんですね」

と言われました。

このお子さんの方も、自分が暗くなっていたら、母親が悲しんでしまうと頑張っているのです。

お互いを思いやることによって人はこんなにも強くなれるのか思い知らされました。

やはり人は慈悲の心をみんな持って生まれているのであります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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