第1303回「時代を生きる」

本日八月一日であります。

八月一日を八朔といいます。

『広辞苑』には。「この日、贈答をして祝う習慣がある」と書かれています。

「田の実」ともいうようです。

「田の実」を調べてみると、「陰暦八月朔日に新穀を贈答して祝った民間行事」と書かれていて「田の実すなわち稲のみのりを祝う意から起こるという」のです。

さて、人はだれしも、その時代を生きています。

時代といっても、そこに生きる人がいてこそできるものですが、その人もまた時代の影響を受けるものであります。

七月の末に「いま、日本精神の源流を探る一日集中講義 日本の勤勉思想をひらいた先達に学ぶ」というセミナーが致知出版社で開催され、わたくしの講師の一人でありました。
そこで取り上げられた先達というのが、中江藤樹、鈴木正三、石田梅岩、二宮尊徳の四人でした。

わたくしが担当したのが鈴木正三でした。

中江藤樹は 1608年に生まれ、1648年に亡くなっています。

鈴木正三が、1579年に生まれて、1655年に亡くなっています。

石田梅岩が、1685年に生まれて、1744年に亡くなっています。

二宮尊徳が、1787年に生まれて、1856年に亡くなっています。

同じ江戸期の人物ですが、その生きた時代にはかなりの開きがあります。

鈴木正三の生まれた1579年というのは、天正七年で織田信長が天下を平定し、安土に広大な城を築き、その天守が完成した年です。

徳川家康は、その子の松平信康を自害させています。

信長は丹後丹波を平定しています。

それから徳川秀忠が生まれた年でもあります。

あくる天正八年本願寺光佐顕如が、信長と和睦し石山合戦が終ります。

柴田勝家は、加賀一揆を鎮圧しています。

天正十年には、信長、家康の連合軍が、武田勝頼を甲斐国田野に包囲し、武田氏が滅亡しました。

そして信長が、京の本能寺に入り、明智光秀に討たれてしまいます。

鈴木正三が生まれたのはそんな動乱の時代であります。

関ヶ原の合戦の時には、鈴木正三は二十二歳で、本田正信についています。

岩波書店の『仏教辞典』には、鈴木正三について「三河(愛知県)出身の武士で、徳川家に仕え、関ヶ原や大坂の陣にも出陣したが、1620年(元和6)出家。」と書かれています。

関ヶ原には、本多正信と配下で出陣していますが、実際には、本多正信は徳川秀忠について、中山道をすすみ信州上田で、真田昌幸にさえぎられてしまい、関ヶ原の合戦には参加できなかったのでした。

大坂冬の陣には、本多忠朝に従っています。

本多忠朝は、本多忠勝の次男です。

忠朝は、徳川秀忠につかえていて、主戦場となるところには出ていなかったようなのです。

また鈴木正三は夏の陣では徳川秀忠に従っています。

これについても本多忠朝のもとにいたのか、秀忠のもとにいたのかは定かではないようです。

忠朝にもとにいたのであれば、先陣にでていたことになりますし、秀忠のもとにいたのであれば、後方にいたことになるようです。

いずれにしても、激動の時代を生き抜いたということはたしかなのであります。

夏の陣に参戦したのが三十七歳でありました。

そのころ臨済宗の南泉寺の大愚和尚に参禅しています。

四十二歳で出家していますが、そのことについて、講談社『日本禅僧14 正三』には、

「元和六年(一六二〇)のことであるから、天下は二代将軍の統治の下に泰平となり、正三自身もはや武士としてのお役に立つこともないと感じたのではあるまいか。
しかし旗本が出家遁世すればその家は断絶させられるならわしであった。

そこで執政の老中は、将軍秀忠の機嫌のよいときを見はからって、夜話のついでに「鈴木九太夫が不図道心を起し候」と言上した。

秀忠は、これを聞いて、「それは道心と云では無いぞ、隠居したまでだ」といって、鈴木家を断絶させる必要なしとした。

そこで老中もよろこび、重長を養子に迎えて鈴木家を継がしめた。

正三は出家して僧名を大愚和尚につけてもらおうとしたが、大愚は「正三の名で十分ではないか」と言って命名することを辞退したので、改名せず出家後も正三で通した。」

と書かれています。

五十九歳のとき、天草の乱がおこりました。

天草四郎を頭に、農民二万数千人が原城址にこもったのでした。

正三の弟重成も、正三の子重辰も出陣しています。

重成は天草の乱のあと、荒れ果てた天草の初代代官に任命されました。

六十四歳の鈴木正三は、この天草を訪れ、三十二もの寺を建立し、「破吉利支丹」という書物を著しています。

弟の重成は、実直な方だったようで、実質石高の倍もの年貢に苦しむ天草の農民の苦労を見て、石高を半分にするように嘆願したのでした。

また天草を暴風雨が襲って、田畑も家も流され、食料のあとわずかで底をつく状況となり、重成はお城の米蔵を開けるように許可を求めました。

いずれも聞き入れられず重成は自刃したのでした。

正三七十五歳の時でした。

この七年ののち、石高半減は認められるのでした。

重辰が二代目の代官となっていた時でありました。

重辰は、正三の実の子でありました。

こんな動乱の歴史の真っただ中を生き抜いたのが、鈴木正三でありました。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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